村田紗耶香『コンビニ人間』。無個性と思われるものの個性と、価値観の押し付けについて考える

コンビニで働く人の話かなあと思い、読み始めた。確かに、そうだった。そうだったが、想像の斜め上を行くとんでもない作品であった。「コンビニで働く」という一つの軸を元に、無意識に社会的価値観に沿って生きる人々、それを受け入れられずに苦悩する人々を描く。

と言っても、主人公の古倉さんはそのどちらとも言い切れない。社会的価値観を積極的に受け入れ、自分の個性を消し、世界の「歯車の一つ」になることで、上手に生きている(?)人だった。現実の世界を描いているのに、どこか奇妙な世界観が広がっていて、ページを捲るたびに惹き付けられた。

「皆と同じ」が求められる世界で、逆説的に「生きやすさ」を得る

古倉さんは、子どもの頃から世間に馴染めない考え方を持っていた。それゆえに「皆の真似をするか、誰かの指示に従うか、どちらかにして、自ら動くのは一切やめた」(p.16)という人だ。そんな中で大人になり、コンビニで働き始めた際、社員の真似をして仕事をしていると褒められ、認められたと感じた。

そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。

『コンビニ人間』p.25

突拍子もない話だ。それなのに、「あ、ありそう」と思ってしまう自分がいる。加えて、彼女にちょっとした共感もあった。

実のところ、私は子どもの頃から、いくつかの面で「世間とズレた考え方を持っているな」という自覚があり、世間に馴染めるようにうまく隠したり、合う部分だけ話したりしながら生きてきた節がある。大人になってからは特に隠し立てをする必要がなくなったが、古倉さんくらい大きく価値観が異なれば、私もたぶん、世間に馴染むほうを選ぶと思う。その方がラクだからだ。

コンビニ店員は、画一的な仕事を求められる。だからこそ古倉さんは、個性を埋没させた働き方で、逆説的に「生きやすさ」を得ているのである。個性をなくすことで生きやすくなる、なんという皮肉……でありながら、ちょっと日本社会の真理をついているような気もして苦しい。多様性の時代と言えど、まだまだマイノリティを受け入れられない人は多い。

古倉さんに共感がある。その一方で、私が古倉さんと全く同じ立場とは言い切れず、ときにマジョリティ側に位置して、彼女のような人を生きづらくしている場合もあるだろうと思った。気をつけてはいるが、私にもまだまだ無意識の偏見が潜んでいるはずだ。いつのまにか本書に登場するマジョリティの人たちのように、何らかのマイノリティの人々を「排除」しようと考えることがあるかもしれないと思い、恐ろしくなった。

どちらの側に位置していると思わず、両方の立場を自分に置き換えて考えることが大事ではないかと思う。

社会に馴染みたくても馴染めない苦しみ

この物語のキーポイントとなるのは、「白羽さん」の存在だと思う。白羽さんは「婚活」のためにコンビニで働き始めた35歳の男性で、勤務態度が悪く、おまけに客の女性をストーカーしてしまう。はっきり言って、嫌な奴である。

白羽さんもまた、世の中に馴染むことができない。しかし古倉さんとは考え方が異なり、「世界が不完全なせいで、僕は不当な扱いを受けている」と、被害者意識を強く持っている。彼は、世の中に迎合されたい気持ちがあるように思う。ところが、自分が迎合されるようなスペックに満たないと思っている(あるいは、思わされている)から、苦しく、悩み、同じく迎合されていないと思われる古倉さんに当たり散らす。

ただ、「普通の人間という皮をかぶって、そのマニュアル通りに振る舞えばムラを追い出されることも、邪魔者扱いされることもない」と話す古倉さんと、「それが苦しいから、こんなに悩んでいるんだ」(p.95)とこぼす白羽さんは、同じ立場のように見えて大きく乖離している。馴染みたくても馴染めない、だから不幸なのだと豪語する彼には、少なからず頷く一面もある。

白羽さんのように他人を罵倒したり見下したり、ストーカーすることは許されない……が、世の中の社会的価値観の押し付けが、彼のような人を生んでいる事実も否定できない。白羽さんをただの「ムカつく、酷い奴」と片付けることは簡単だが、それでは重要な問題を見落としてしまうのではないかと感じた。白羽さんのような人が、被害者意識を持たずに生きられる社会は、残念ながらまだ遠いのだろう。

無個性と思われるものの「個性」を考える

では、「社会的価値観の押し付けは良くない、誰もが生きやすい社会にすべき!」がこの物語の言いたいことなのかと言えば、それも違うように思う。わかりやすい提言だけではまとまらないのが、この作品の大きな魅力ではないか。

解説にあった以下のコメントが、特に印象的だった。

生き難さを抱えた人間が、巨大な社会システムの中で個を埋没させる話か、と言われれば、そうではないように思う。主人公の「個」は、「個」を本来それほど必要とされないコンビニという世界の中で、圧倒的に輝いている。

『コンビニ人間』解説 p.165~166

これは本当に、私も読んでいて感じたことである。

一般に普及する社会的価値観に埋め込まれることは無個性のように感じていたが、古倉さんを見ていると「それもまた個性ではないか?」と思わされる。となると、私が考えている「多様性」や「個性の在り方」には大きく揺らぎが生じてくる。「○○の価値観から解放されよう!」と考えること自体が、もしかして押し付けに繋がることもあるのでは……? 怖い、たぶん私はそういうことを、無意識に考えているような気がする。価値観の解放=多様性ではないのかもしれないのである。

自分の中の偏見にまたしてもぶつかって、めちゃくちゃ苦しい。苦しいが、なんとなく何かが啓けたような感覚もあり、心地よさもあるから不思議だ。

『コンビニ人間』は、一つ一つの描写が淡々と描かれているのに強烈、なおかつ展開も予測できない面白さがあり、個人的にはかなり好きな作品だった。後半の展開は、リアルな価値観のぶつかり合いが苦しいにもかかわらず、最終的には幻想的な、ダークファンタジーのような空気を感じて夢うつつ状態だったのだが、私だけだろうか……その読後感もまた、好きだった。

もっと小説の記事を読む

⇒小説の記事一覧はこちら

もっと読書感想の記事を読む

⇒読書感想の記事一覧はこちら

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


ABOUT US
mae
食べること・読むことがとにかく好き。食と本にまつわる雑感を日々記録しています。