なぜか蟹に出合ってしまう小説を書いたのは、果たして「啓示」だったのか?

作家の友田とんさんは著書『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1 まだ歩きださない』の中で、「啓示」のように突然、表題の言葉が降りてきたと言っていた。

啓示が降ってくるのなら、もっと実利があることが降ってきてくれたらいいのにと考える。だが、私に降ってきたのは、「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する」という言葉ひとつだったのである。

『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1 まだ歩きださない』p.3

本書では実際に、パリのガイドブックを持って東京を歩いてみた様子が描かれる。「どういうこと?」と思う人もいるかもしれないが、その摩訶不思議な世界観は何度読んでもふいに笑えたり、妙に感心してしまったりする。

一冊の本(続編も出されているが)になったのだから、やはり、「啓示」だったのではと私は思う。

これを読んで、ふと、自分が学生の頃に書いた小説のことを思い出した。

高校生の女の子が「とにかくそこかしこで蟹を見かけてしまう」という謎の小説だった。謎すぎる。でも、なぜか書きたくなって書いた。データ残っていたので、ちょっとだけ載せてみよう。

亜里沙はふと気づいてしまった。視界に入ってしまった。特に気になど止めてもいなかった教室の端を、蟹が歩いている。

小さな、小さな蟹だ。最初は何か分からなかったが、横歩きとそのシルエットで蟹だと分かった。なんでこんなところに蟹がいるんだ、亜里沙は机に片肘を付きながら、その蟹の行方を目で追った。蟹はすごく速いスピードで駆けだしたかと思えば、すぐに止まったり、こっちへ戻ってきたりしている。とにかく、教室の隅をそんな風にして行ったり来たりしているのだ。

これには亜里沙も驚き、随分と興味を示した。授業中ということも忘れて、すっかりと蟹に夢中になった。今まで食用の大きな蟹しか見たことなかった亜里沙にとって、それは大変珍しいものだった。何も大きな蟹だけが蟹ではないのだ。こんなに小さく恐らく食べることのできない蟹でも、「蟹」なのだ。

この後、主人公と同じように蟹を見るクラスメイトが出てきたり、そのクラスメイトと「教室で蟹を見た」という不可思議な出来事を共有して親交を深めたりして、蟹にまつわる話が発展していく。

ちなみに、私は蟹を食べるのが好きなのであって、蟹自体にそこまで思い入れを持っていない。関心を持った覚えもない。でも当時、なぜかこれを書かずにはいられなかったのである。

そうであれば、これはもしかして何らかの「啓示」だったのではないか?
だとしたら、いったい、何を意味していたんだろう。謎は未だ、解明されていない。

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襟田 あいま
食べること・読むことがとにかく好き。食と本にまつわる雑感を日々記録しています。