2024年、印象に残った本まとめ

2024年に読んだ本の中で、特に印象に残った作品とその感想をまとめ。

【1】『食道楽』村井弦斎

明治期最大級のベストセラーと謳われるグルメ小説。文学士・大原と料理が得意なお登和の恋愛模様を中心にしつつ、さまざまな料理やお酒、デザートの作り方や豆知識が登場する。本書の実用的な知恵のみを取り上げた『台所重宝記』も面白かったが、こちらはこちらで全く別の作品として楽しく読めた。食の知恵が興味深いのはもちろん、大原とお登和のロマンスが可愛らしく、文章も小気味良い。

紹介文にて、当時は「嫁入り道具としても重宝された」とあったが、そんな嫁入り道具の中で、登場人物の一人である「奥さん」が男性客に「男の方は誰でも台所のことを軽蔑して、飯の炊きようも知らんとか、味噌を摺ることも出来ないとか、おっしゃいますが、戦争へ行って籠城したらどうなさいます。高尚な学理は知っていても、自分で自分の食べものを作れなかったら不自由ですね」(p.32)と言ってのける場面にはちょっぴりスカッとした。注釈によれば、実際日露戦争の際には水雷艇で『食道楽』を参考に料理を作った人もいたようだ。

ちなみに、続いて読んだ黒岩比佐子による村井弦斎の評伝『『食道楽の人』村井弦斎』には、彼が女性問題に関心を持っていたことが語られていた。「当時の文士といえば、放縦な生活をして酒と女にひたるというイメージがあるが、弦斎はそれを疎ましくさえ思っていたろう」(p.155)。こうした考えが、『食道楽』にも反映されているように思う。

【2】『世界のユートピア 理想郷を求めた人類の野望と夢』オフェリー・シャバロシュ、ジャン=ミシェル・ビリウー

ジェイムズ・ヒルトン『失われた地平線』(理想郷「シャングリ・ラ」に不時着する物語)をきっかけに、ユートピアに関心を持った。私達が理想とする世界は、いったいどんなものなのだろう?

本書が挙げるユートピアは、実に多様だった。例えば、かつて1500万人もの移民がおしよせたという、アメリカ・エリス島。迫害や貧困、飢餓から逃れてたどり着いた島は、移民たちにとってユートピアだったと言える。あるいは、軍隊なき国家であり、犯罪率が並外れて低いアイスランド「ナイスランド(親切な国)」という愛称もあるほどの穏やかな国は、理想の地とする人も多いだろう。そのほか、居住可能な惑星にまつわる記述もあったが、宇宙への希望は、ユートピアへの希望に近い。

また「ウィキペディア」「無限の知的資源を提供する場」ゆえに、「日々更新されるユートピア」と定義づけていて紹介していたのも印象的であった。「シャングリ・ラ」も叡智が集まる場所であったが、知りたいことを無限に学び続けられる場所は確かに、私にとってはかなりユートピア率(?)が高い。

科学技術の進化も目覚ましい昨今、不老不死とはいかないが、寿命は確実に伸び、望みをかなえてくれるAIも発達してきている。世の中はもしかすると、私たちが望む理想郷に近づいていっているのかもしれない。

【3】『わたしは英国王に給仕した』ボフミル・フラバル

主人公は給仕見習い。真面目に働き、ときにずる賢い手法で(ここでは正攻法なのかもしれない)コツコツとお金を貯め、貯蓄で風俗に出向く。セールスマンや詩人、ジプシー、お金持ちなどの客の話はへんてこで下品な内容ばかり。前半はそんな客にも、世間知らずで純粋すぎる主人公にも辟易した。しかし、純粋すぎるゆえに、夢を強く持ち、不器用ながらに進んでいく様を、次第に応援したくなってくる。のし上がっていく姿に、こちらも盛り上がる。

いつか百万長者になって、ほかの人すべてと対等になって、それからチェスキー・ラーイかどこかに小さなホテルを、鳥かごのおような小さな宿を借りるか購入し、裕福な女性と結婚をするのだと決心していた(p.150)

一方、後半は徐々に戦争の足音がしてくる。ドイツ人とチェコ人の争いが激しくなり、突然連行され、独房に入れられるなど、激しさは増していく。毎回話の終わりにある「満足してくれたかい? 今日はこのあたりでおしまいだよ」が、最初は軽い挨拶に聞こえていたが、ふいに重苦しいものになったり、もの寂しいものになったりした。

結末は、読み始めの頃からすると意外かもしれないが、読み切った頃には納得感が大きく、主人公らしい選択だと感じた。

【4】『郊外のフェアリーテール』キャサリン・マンスフィールド

初のキャサリン・マンスフィールド体験。短編集。映画のワンシーンのような繊細な描写とセリフが、流れるように描き出される。特に「ヴェールをあげて、デッキに立つジェニー」(p.98)など、体言止めの表現が印象的だった。脚本のような文体ゆえに、映画的だと感じたのだろうか。

内容は、絶望とその中にある幸福。幸福とその中にある絶望。明るいシーンにも影がさしていて、絶妙なバランスを保っている。また、階級の比較的高い人が描かれていて、何不自由ない生活をしているように側からは見えるけれど、その中の確かな物悲しさを丁寧に表現している。例えば、「ガーデンパーティー」では階級の低いものへの無知、無関心が静かに描かれていた。主人公はそれに違和感を覚えているが、どうにもできずにいる。

ほかにも「一杯のお茶」は、「正確に言えば美人ではない」というローズマリー・フェルがかわいい女性を家に連れて帰ってくる話。夫は彼女の容姿を見て「びっくりするくらいかわいい」という。自分にはいつも「ものすごく好き」とよどみなく言ってくれる夫であるが、最後には思わず「わたし、かわいい?」と聞いてしまう。自然とルッキズムに囚われていく様子が、淡々としているが苦しかった。それから、「パール・ボタンはどんなふうにさらわれたか」はパール・ボタンを「箱のお家につれもどす」物語で、不思議な世界観が好きだった。

解説では、ヴァージニア・ウルフとの関係性が語られている。ウルフは「キャサリンのなかに、小説家としての、女性としてのライヴァルを見出した」(p.309)という。

ウルフのキャサリンに対する態度は、つねに相反する感情のいり交じったもので、ときにはその才能を賛美し、ときには強い嫌悪感を表した。そしてそれはキャサリンのほうでも同様で、キャサリンもまたウルフの作品に高い評価を与える一方で、酷評もした(p.309)

同時代に生きる女性作家として、さまざまな感情があったのだろうと推測する。

【5】『ものがたりの家 吉田誠治 美術設定集』

イラストレーター・吉田誠治氏による、物語に登場しそうな建物たちのイラスト集。「厭世的な天文学者の住処」「凝り性な時計師」「竜使いの郵便局」など、建物とそこに住むキャラクターの設定と共に、外観や内観、レイアウト、断面図などのイラストを掲載している。絵本やファンタジーが好きな人はみんな、わくわくして読めることだろう。建物たちに実際に物語があるわけではないのに、ありありと想像できるほどに細かな作りとなっていた。

あいだで「屋根」や「トイレ」など、建物に欠かせない設備の造りや歴史の解説もある。繊細でリアリティのある建物を描くには、たとえ架空の設定であったとしても、いや、架空だからこそ、歴史や文化、建築の知識が重要になる。奥深く丁寧な設定が、物語を豊かにしてくれるのである。

【6】『やさしい猫』中島京子

被災のボランティアをし、日本の整備工場で働くスリランカ人・クマさんとシングルマザーのミユキさんが恋に落ちた。二人はやがて結婚することを決めるが、ここで大きな問題が立ちはだかる。クマさんの失業と、オーバーステイだ。

外国人労働者のクマさんの失業、それは日本人の失業とは事情が大きく異なる。「在留カードが切れる」「不法滞在者として扱われてしまう」「そもそも“ガイジン”と差別扱いを受けているうえに、決まった職に就かなければいけないから再就職がかなり難しい」など、困難だらけだ。なかなか再就職できなかった結果としてオーバーステイしてしまったクマさんは、そのことを申告に行こうとした入管の直前で、なぜか待ち構えていた警官に捕まり、逮捕されてしまう。

「仕事してたときは、きちんと税金も納めてた。オレ、泥棒も殺人もしてない。だけど、いちばん悪いことした人みたい」(単行本版 p.194)

1日中続く嫌な尋問、それでも降りない在留特別許可。収容所は窓もなく、外が見えず暗い。自殺や病死になる人も多い。病気になっても診てもらえない。保険料は10割負担。フィクションだが、内容は現実にも起こっていることだ。

「これは本当に21世紀の日本の話なのか?」と疑いたくなるほどに、外国人滞在者にひどい仕打ちをしている。辛すぎて、10回は泣いた。私はこんなのうのうと生きていていいんだろうかと、しばらく立ち直れなかった。「日本人は、あそこでなにが起こってるか、ぜんぜん知らないよね」(単行本版 p.227)というセリフが、体に重くのしかかった。今まで知らなかったことが恥ずかしい。それでも今、知ることができて、本当に良かった。

【7】『向田邦子ベスト・エッセイ』向田邦子

取り上げる話題や言葉選びが好きで、読んでいると癒される。特に食に関してのエッセイはどれも軽快で、読み心地が良い。例えば「父の詫び状」では届いた活き伊勢海老を、死ぬ前に外に出してやるエピソードがある。

どっちみち長くない命なのだから、しばらく自由に遊ばせてやろうと思ったのだ。海老は立派なひげを細かく震わせながら、三和土(たたき)の上を歩きにくそうに動いている。黒い目は何を見ているのか。私たちが美味しいと賞味する脳味噌はいま何を考えているのだろう。(p.11)

あるいは「水羊羹」。「脚本家というタイトルよりも、味醂干し評論家、または水羊羹評論家というほうがふさわしいのではないかと思っております」(p.111)といい、水羊羹の食べ方を説く。

「心を静めて、香りの高い紅茶を丁寧に入れ」(p.112)、器をしっかりと選び、ライティングにもこだわる。(「すだれ越しの自然光か、せめて昔風の、少し黄色っぽい電灯の下で味わいたいものです」p.113)、ムード・ミュージックはミリー・ヴァーノンの「スプリング・イズ・ヒア」が一番合うらしい。おすすめは「菊家」の水羊羹だとか。

また、日頃の雑感を綴っている場面では、共感も多かった。「白か黒か」では、白黒つけることの難しさを綴る。

白か黒か。
改まって考えると、判らなくなる癖がある。
これも子供の時分だが、冬など私は朝起きると、母や祖母に、「ねえ、今日は寒い? 寒くない?」と聞いて、「そのくらい、自分で考えなさい」と叱られた。
考えても判らないから、丁寧に考えれば考えるほど判らなくなってしまうから聞いているのである。(p.36-37)

私が、曲がりなりにもドラマなど書いてごはんをいただいている部分は、白か黒か判らず迷ってしまう部分のような気がする。(p.38-39)

白黒つけなければならないと考えると、私だっていつも、気が重い。世の中のたいていのことは、グラデーションではないかと考えているからである。判然としないことで、世界ができていると思う。その間の感覚を、大切にしたい。

掲載されたエッセイは、その多くが戦争や家族の切実な話題と絡み合っており、当時の生活に根づいた作品となっている。時代が違うからこそ新鮮に感じること、時代が違っても変わらないと感じること、両方が入り混じっていた。ちなみに、続いて『海苔と卵と朝めし 食いしん坊エッセイ傑作選』も読了。『ベスト・エッセイ』と重複する作品もあるが、どちらも手元に置いておきたい一冊となった。

【8】『二番目の悪者』林木林・庄野ナホコ

絵本だが、大人も読むべきではないか。SNS時代に心に留めておきたい物語。

動物たちの世界が描かれ、そこには二頭のライオンがいる。野心家の「金のライオン」と、大人しくて優しく、人望のある「銀のライオン」。次の王様として国民たちが期待を寄せるのは銀のライオンだったが、自分が王様になりたい金のライオンは、銀のライオンの悪い噂を流し始める。

「人は見かけによらないっていうけど、本当だなぁ。まさかあのやさしい銀のライオンがねぇ……。すれちがいざまに、ちょっと肩がぶつかっただけなのに、いきなりなぐられたよ」
さも痛そうにしかめっ面をした。
本当は、銀のライオンを偵察した帰り道で、うっかり木に顔をぶつけてしまったのだ。(p.22)

金のライオンが噂を流し続けると、次第にその噂に流され始める動物が現れた。嘘の噂が、なぜか本当のように広まっていく。

今では、銀のライオンがフクロウの家をたたきこわしたという嘘が、「本当のこと」として知れ渡っている。
小鳥のヒナを巣から落として握りつぶそうとしたという偽りが、「真実」としてまかり通っている。(p.39)

結局金のライオンが王様になったが、彼は自分だけが贅沢三昧、借金もたくさんして、戦争も起こす。次第に国は荒れ狂っていき、動物たちの世界は平和を失っていく。

金のライオンが、確かに一番悪いだろう。皆に嘘をついて騙し、のし上がった。しかし、本当に金のライオンだけが悪者なのだろうか? 「僕はただ、銀のライオンに気をつけてって聞いたから、仲間に教えただけだよ」「私だって、なんとなく心配だったから、家族に知らせただけだわ」と呟く動物たちは決して悪気はない。しかし、真実かどうかを確かめずに悪評を広めたことに違いはない。

SNSなどで、誰かが何気なく呟いたことを、嘘か真実かわからないままに拡散させている人は少なくない。気づかないうちに嘘に加担していることもある。「嘘は、向こうから巧妙にやってくるが、真実は、自らさがし求めなければみつけられない」(p.43)。私たちは改めて、自分で調べ、自分の頭で考え、判断することの大切さを思い出す必要がある。

【9】『春宵十話』岡潔

数学者による随筆集。数学への愛ももちろんたっぷりと語られているが、人の情緒、教育、学ぶことそのものについて、絵画や音楽などの芸術についてなど、話題は幅広い。例えば「女性を描いた文学者」では、男性作家の描く女性像について語っている。著者曰く、本当に女性を描けているのはドストエフスキーと漱石のみだという。

こういえば、たとえばゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」には永遠の女性が描かれているではないか、志賀直哉の「直子の死」は可憐な小品ではないかと反問されるかも知れない。しかし、ゲーテは男性が目して永遠の女性とする型を描いているにすぎず、「直子の死」は思いがけぬ女性の死に直面した男性を描いているに過ぎない。ひっきょうどちらも描かれているのは男性であり、女性は添え物にとどまっている。(p.181)

ちなみにドストエフスキーと漱石がなぜ描けているのかという点については、「漱石が『則天去私』を標榜し、ドストエフスキーが諸得の中でも『謙虚さ』を最も大事にしている」からではないかと推測している。「わかっている」と傲慢に思わないこと、できるだけ、ありのままの事実を見つめようとすることが大切なのだろうと、私も考える。

謙虚でやわらかながら、ときにはっきりと述べるべきことを述べる文章が、知性と優しさ、温かさに溢れている。本棚にあると嬉しい本であり、ふとしたときに読みたい本である。

【10】『水中の哲学者たち』永井玲衣

哲学という複雑で難解そうに見える分野を、まっすぐにわかりやすく見せてくれるエッセイ。「世間は一見まともなようで、実はかなりすっとぼけている」「よくよく考えてみるとわけがわからないことばかりだ」(p.15)といい、日常の出来事と哲学を絡めながら綴っている。文章も内容も面白く、声に出して笑ってしまった。

中でも、哲学者でも哲学書はとっつきにくいという話には、ほっとしたというか、わからないと感じてもいいんだと気が抜けた。

手始めにサルトルという名前の哲学者が書いた『存在と無』という本をひらいてみる。
存在とはばばばばばばばぴぶぶべべぼ、あるところのものびびびばば、ではないところばばっええじゃややえあくうしたわかちこわかちこ。ぽぽびえばららららりる無、おわあああいいいががのえしすこらぎばばびび、じつじょんしゅぎ。
本を閉じた。脳が爆発してしまう、と思った。(p.16-17)

私にも同じような気持ちになった経験がある。しかし、その後に「彼は、世界のわけのわからなさを、わからないまま伝えるしかなかったんじゃないか」(p.19)とあり、納得がいった。考えれば考えるほどわけがわからないことについて、何とか言語化を試みた結果が、哲学書なのかもしれない。

あるいは、子どもたちと哲学の対話をする話。子どもたちに自由な発言を促し、勇気を持って意見を述べた子に対して、誰かが「なんか、とんでもないことばかり言っちゃってましたね」とまとめてしまう。それについて著者は、「哲学者は『とんでもないこと』を言うが、突拍子がないわけではない。彼らにはしっかりとした理由がある。動機づけがあり、その主張を支える基盤がある。同じように子どもたちにも理由がある」と強く語る。

授業中勇気を持って発言した生徒が、終わったあとにわたしのところにやってきて「とんでもないことを言ってごめんなさい、先生のことを困らせたかもしれない」と申し訳なさそうに言いにくることがある。なぜそんな風に思うのだろう。なぜ自分の考えが、場に貢献していないと思うのだろう。なぜあなたが苦しんで産んだあなただけの道を恥じるのだろう。
とんでもないことを言ってごめんなさい。
わたしはこの言葉を聞くたびに泣きたくなる。(p.48)

自由な発想や発言を他人が簡単に捻じ曲げていいことはない。私も自分はもちろん、誰かの発想をぞんざいに扱わないように生きていきたい。

このほか、友人たちの「人生はいつだってブーカや!!!」「世界、問題集かよ」などなど、笑えながらも芯を食っているような気がして妙に感心してしまう名言やエピソードが並び、読んでいると自分の考えや気持ちがどんどん出てくる本だった。私はまさに、哲学の扉を開いている。

【11】『らんたん』柚木麻子

時代小説+シスターフッドストーリー。篤姫の息子・乕児(とらじ)が、渡辺ゆりと結婚し、彼女とシスターフッドを結ぶ河合道に出会う。道は恋愛や結婚をしない主義で、日本の結婚制度に懐疑的。この時代に珍しく「男女平等」を軽やかに主張している。おしゃれで知的でユーモアあふれる彼女に、虜になった。道は理想主義かもしれないが、理想を語ることも、理想に向けて何ができるかを考えること、挑戦することも、すごく大事だ。

村岡花子や津田梅子、平塚雷鳥、与謝野晶子など、今もなお名を残し続ける女性たちが次々と登場し、ときにぶつかり合い、別々の道を歩みながらも、それぞれの正義のために行動していく。女性たちが結束するシーンには胸が熱くなったが、目指しているゴールは同じであるにもかかわらず、やり方や細かな考え方の違いで分断していく様子は悲しく、やりきれない気持ちにもなった。彼女たちのセリフを一部、引用しておく。

津田梅子
「私たち、日本女性の教育に携わる者は、どこからどう見ても完璧な行動をとり、決して目立つ真似をしてはいけないんです。悪い評判は、後に続く者たちの足を引っ張るわ。学問を身につける女は生意気だって言われたら、迷惑を被るのは彼女たちなのよ」(p.124-125)

捨松
「日本で若い女が人間として認められるには、結婚するしかないのだと思う。この国では女は十四歳から十六歳の間で結婚するのが普通なんだもの。学校を作るには、まずは日本の規範に則って、人間にならないと。お互い夢を叶えるのはそれからよ」(p.134)

平塚明(平塚雷鳥)
「私は誰かに光を与えようとしたり、光が当たるのを待つのじゃなくて、自分が太陽になりたいわ。そうよ、女は一人一人、本来、もっと強くていいし、自ら世に訴えていいのよ」(p.138)

女性が自分たちの解放を目指して闘う物語ではあるし、それを阻む男性たちも登場してしまうが、それだけではなく、男性の苦しみや解放、かっこよさも同時に描いている。例えば、弱気を助け悪しきをくじく、ブシドー精神の持ち主・新渡戸稲造「日本には妻と母と娘はいても、人間としての女がいない。女は男の付属品としてしか教育されない」(p.65)と語るなど、男女の不平等や日本の制度についてはっきりと否定的な意見を述べている。男尊女卑の考え方が残念ながら主流となっていた時代にも、彼らのような人がいて闘ってきてくれていたのだと初めて知った。

ちなみにタイトルの『らんたん』は、上級生が下級生にランターンを継承する学校行事に由来している。道は「私たちの役目はランターンを決して消さないこと、受け継ぐこと」だとし、「もし、私たちが平和を守ることに失敗したとしても、教育の火さえ消さなければ、必ず次の世代がもっとうまくやってくれます」(p.330)と語る。彼女たちが消さずに受け継いできた火を、私もまた、受け継ぐことができているだろうか。

続いて『ついでにジェントルメン』も読了。こちらは短編集であったが、『らんたん』の世界にも通ずるシスターフッドとともに、さまざまな人の生きづらさからの解放を軽快に描いていた。

【12】『ヴィネガー・ガール』アン・タイラー

シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』を「語りなおし」た小説。『じゃじゃ馬ならし』は有名な喜劇でありつつも、性差別的な物語であるゆえに、常に批判の的となっているという。作者は同作品が嫌いであると公言し、解説者も「シェイクスピア劇の中でもこれほど見に行く気がおきない芝居はない」ときっぱり。そんな作品を、フェミニズムの視点で描き出しているのが新鮮だった。

ちなみに「語りなおし」シリーズは、マーガレット・アトウッド『獄中シェイクスピア劇団』も読んだが、こちらもまた全く違うテイストで面白かった。

【13】『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレイディみかこ

英国の敬虔なカトリック小学校で育ってきた著者の息子が、「元底辺中学校」へ進学した様子を描くノンフィクション。これまでの裕福な友人たちとは違う、移民、貧困層などの人々と交流するようになり、親子共に多様性の在り方や差別について、より考えるようになっていく。

例えば、「いまどき黒人をジャングルとかバナナとかいう60年代みたいな言葉で差別するのは東欧出身の田舎者ぐらいのもんだ」(p.36)という発言は一見差別主義者を批判しているように見えるが、「こちらはこちらで別のレイヤーでの差別発言」だと気づく。

多様化した社会のレイシズムには様々なレイヤーが生まれていて、どんどん複雑になっていく。移民と一口に言ってもいろんな人種がいるし、出身国も違う。移民の中にも人種差別的な行動を取る人はいるし、やられたらやり返す人たちもいる。その攻防戦を見ている英国人は英国人で、どちらかの肩を持って他方に差別的言動を取ったりする。(p.36)

「多様性」という言葉は難しい。たくさんの人たちに出会えば出会うほど、複雑になり、何が正しいのかわからなくなる。でも著者は言う。「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」(p.60)。そして息子さんが通う中学は、まさにその大変な渦の中を進んでいる。校長の下記のセリフが印象的であった。

「僕は、イングリッシュで、ブリティッシュで、ヨーロピアンです。複数のアイデンティティを持っています。どれか一つということではない。それなら全部書けと言われるなら、『イングリッシュ&ブリティッシュ&ヨーロピアン・ヴァリュー』とでもしますか。長くてしょうがないですけど」(p.64)

息子は自分のアイデンティティを「イエローでホワイト」と理解し、「ちょっとブルー」と感情を付け足してメモをした。それを見た母は、次のように思う。

イエローでホワイトな子どもがブルーである必要なんかない。色があるとすれば、それはまだ人間としてグリーンであるという、人種も階級も性的指向も関係なく、息子にもティムにもダニエルにもオリバーにもバンドのメンバーたちにも共通の未熟なティーンの色があるだけなのだ。(p.252)

何もダブルの人でなくても、私も含め、誰しも複数のアイデンティティを持っていると思う。ゆえに、何かとカテゴライズして片づけようとすると、きっとうまくいかない。かと言って、「カテゴライズしない」もまた、できない。カテゴリーが必要な場合もあるし、無意識にしてしまっていることもあるだろう。その時々、毎回、考え続けるしかない。たとえ大変で、面倒だとしても。

続けて、続編『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』も読んだ。こちらも引き続き息子の学校で起こった出来事を通して、属性や文化の違いなど、より幅広く「多様性」や「差別」に触れている。無知にならない努力を、怠るわけにはいかないと強く思った。

【14】『「役に立たない」研究の未来』初田哲男 大隅良典 隠岐さや香 柴藤亮介

直接的に何かの役に立つわけではないし、今すぐ経済的価値を見出せるわけではない。そんな「役に立たない」と思われがちな研究をなぜ行う必要があるのかを、丁寧に解説している。ファストな情報が求められる現代で、かなり重要な指摘をしているのではないかと思う。

そもそも「役立つ」とはいったい何なのか。日本では「産業の役に立つこと」や「生活が便利になること」を指すことが多く、「非常に狭い範囲で理解されてしまっている」(p.55)と語られている。しかし、その「役立つ」にたどり着くまでには、たくさんの「役に立たないかもしれない」研究が存在している。

経済的価値の見込める研究への投資は重要ですが、「役に立つ」研究を支えているのは、研究者の自由な発想から生まれた無数の「役に立たない」(とされる)研究、すなわち運営費交付金により支えられている「基礎研究」であることも同時に考えていかなくてはなりません。(p.6)

「いろいろな人がいるゆえに、それに支えられてある分野がすごく進んでいくというのが科学」(p.147)だといい、実際に「役立つ」研究だけがすべてではないことを、多角的に説明している。

読みながら、カトリーン・キラス゠マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』を思い出した。アダム・スミスは確かに成功を収めたかもしれないが、彼を支えていた母やさまざまな人の力がなければ、彼の役立つアイデアは生まれなかったはずだ。今すぐ役立つかどうかだけで物事を判断してしまうことは、大きな危険性をはらんでいる。

【15】『おしゃべりな人見知り』山本ゆり

料理家・山本ゆりさんのエッセイ。もともとレシピのファンで、我が家の献立はよくお世話になっているが、本書でその人となりを改めて知った。文章からにじみ出る気遣いや優しさ、ユーモアは、料理にも反映されているように思う。

【16】『飢渇の人』エドワード・ケアリー

摩訶不思議な短編集。ゴブリンを監禁した話、船に街中の人がのめり込んでしまう話など、ファンタジーだがグロテスクな部分もあり、不気味で独特の世界観。根強いファンがいるのも頷ける。

中でも「私の仕事の邪魔をする隣人たちへ」はまわりに住むヘンテコな隣人たちの話を書いているが、リアルなのかファンタジーなのか区別がつかない。女スパイやらヒッピーやら、いるようないないような人たちは、現実を生きているのだろうか? あるいは「パトリックおじさん」。なかなかにクレイジーな作品で、当分忘れることはできない。パトリックおじさんという植物(?)の育て方を綴っている。

パトリックおじさんは春の初め頃に植えるのがいちばんよい。パトリックおじさんはひどく気難しく、植え始めの頃はとりわけかまってもらいたがる。パトリックおじさんには水をやりすぎてはならない。なぜならおじさんは腐りやすく、すぐにうどんこ病に罹って、小さな白い斑点や黒い斑点が体にできてしまう。(p.171)

史実に基づいているものもあるらしく、リアルとファンタジーの境目で不気味さがより深みを増しているような気がする。序文のメッセージが、印象的。

たとえば、何世代もずっと生き長らえているように見える、とても年老いた村人たちは、間違いなく怪物です。さまざまな姿形をした私の親族には、その類であってもおかしくない人がいましたし、この世でもっとも厳しくて恐ろしく思えた一卵性双生児の祖母と大叔母もそうでした。(p.5)

【17】『わたしたちに手を出すな』ウィリアム・ボイル

マフィアの夫に先立たれた未亡人・リナは、隣人のエンジオにセクハラされたことをきっかけに彼を思いっきり殴り、彼の車を借りて逃走。その足で娘と孫娘に会いに行く決意をする。逃走の最中に元ポルノ女優のウルフスタインと出会い、リナの人生が急転換。とんでもない事件に巻き込まれながらも、女たちが結束し、闘い、ときに泥臭く、ときに爽快に人生を駆け抜けていく姿を描く。ハードボイルドなシスターフッド小説。

ウルフスタインが特にかっこいい。出会って間もないリナに「あたしたち友達になる運命なんだよ、リナ。あたしにはわかる」(p.94)とさらっと伝え、娘のエイドリアンの育児を反省していると「あんたのせいじゃない」(P.101)って励ましてくれる。

「たしかに、いままでずっといろんな悪いものに取り囲まれてた。でもまだ人生はつづく。あんたはまっとうな女だし、あたしっていう友達もいる」(p.325)

「あたしがいるよ」ウルフスタインは言う。「ここにいるのはあたしだけだよ。一緒に乗り越えようよ」(p.362)

エンジオや、ウルフスタインに迫るボビーなど、面倒くさくて自分本位な男性たちに屈せず、もがきながら自分たちの意志を貫く彼女たち。最後の皆で家で食事をするシーンがすごく良かった……彼女たちの人生がこれからも幸せで満たされていますように。

【18】『べつの言葉で』ジュンパ・ラヒリ

ジュンパ・ラヒリはロンドン生まれ、アメリカ育ちの作家。ふだんは英語で作品を書いているが、あるときイタリア語に魅了され、家族と共にローマに移り住む。本書はエッセイであり、ラヒリがイタリア語で書いた最初の作品だという。

「イタリア語は私の情熱」(p.22)と語る彼女は、イタリア語で日記を書き始める。次第に小説もイタリア語に挑戦する。本書内にはその一つとして「取り違え」を掲載している。翻訳家の女が登場したり、意思疎通がうまくできずに苛立ったりと、外国語を学ぶ彼女が感じているであろうことが小説に現れているように思った。

こうした活動の中で、外国語を習得することに対する面白さや苦労、完璧には理解することができない悲しさを綴っている。外国語学習者であれば誰もが痛感する、万国共通の思いではないか。

二つのうち一つを選ばなければいけないとき、どちらが正しいかわからない。目の前に分かれ道が見えて歩みを緩める。動きが取れなくなりそうだと感じる。迷いが広がり、パニックになる。直感的に違いが理解できない。まるで一時的な近眼になってしまったように。(p.70)

そう、これがわたしには絶対に越えられない境界だ。どんなによくできるようになっても、わたしとイタリア語の間に永遠に横たわる壁。わたしの顔かたち。(p.88)

イタリア語で同じ深さまで潜り込むことは不可能だ。まちがいのない文章が書ける望みはあるし、代わりの言葉を選ぶこともできる。だが、子どものころから経験を重ね、熟成された語彙は持ち合わせていない。彼と同じ的確さでイタリア語を細かく吟味することはできない。彼と同じ大局観でイタリア語の文章を判断、評価することは、自分が書いたものでもできない。(p.112)

潮の満ち干のように、わたしの語彙は増えたり減ったりを繰り返し、やってきてはまた去っていく。毎日手帳に書き加えられる単語は短命だ。一時間かけてぴったりな単語を選んでも、あとで忘れてしまうことがたびたびだ。(p.115)

外国語を学べば学ぶほど、直感的に理解できないことをありありと知り、大きな壁があることを痛感する。それでもやっぱり、その言語を「わかりたい」と思う情熱に、私たちは突き動かされる。ラヒリは語る。「生まれたばかりの赤ん坊のように抱きかかえているわたしのイタリア語を守りたい。あやしてやりたい。よく眠り、しっかり食べて、成長してほしい」(p.77)。完璧にわかることはないかもしれない。それでもイタリア語を愛し、挑戦し続ける彼女に、外国語学習者として強く共感した。

【19】『独学大全』読書猿

「独学」の考え方、手法が詰まりに詰まっていた。「独学というのはほぼ確実に挫折する」(p.4)という辛辣なキラーワードから始まるが、「自由さと、中途で挫折することは表裏一体だ。独学はいつだってどこにいたって始められる。何度あきらめても、また戻ってくればいいだけの話だ」(p.4)と語り、独学の面白さとコツをわかりやすく伝えてくれる。いくつか参考にし、実行してみている。

例えば、「できるだけスモールステップで進む」手法。「見た目を減らすことは思った以上に役立つ」といい、まず、 取り組むべき課題について数値化し、その1/100サイズにして、具体的に書き出してみる。それでも大きすぎるならさらに1/10にすることを繰り返す。そうしてできたステップを、一つずつ着実に進んでいく。

大きな計画は実行するのに大変な労力がかかる。しかし、せっかく立てた計画が守れないと、「なんてダメなんだ」と思ってしまう……こういうときは守れないからダメでなく、すべての計画が守れない場合は「少しだけやる」を繰り返す。「やれば少しはできる」というわずかな変化を作り出すことが、心に自信を与えてくれる。

さらに「自分の行動を記録する」手法。「自分の行動を記録すること自体が、行動を改善する効果を持っている」(p.114)といい、記録することで記録対象となった行動が次第に増加するという。こちらも実際、身をもって実感した。行動を記録し始めたら、行動量が大幅に増え、いつのまにか理想の作業量を実行できている。

また、本書を読む前から何となく実行していたことが「もやもや」との向き合い方。

もやもや引っかかるものがあるなら、的外れでいいから単語やフレーズを書き並べてみろ。はき出したものを見て「これじゃない」と思ったら「これじゃない」と書け。そうこうしているうちに「そういえば」と日常にかまけて忘れていた知りたいことを思い出したりするものだ。(p.212)

「もやもや」に徹底的に付き合い、頭の雑多な記憶をサルベージし、少しでも関係ありそうに思えるフィールドにはどんどん顔を出し、その上で起きるかもしれないハプニングや偶然を最大限待ち受けること。(p.223)

このほか、目新しい手法はもちろんのこと、今まで一人で試行錯誤してきて、やっと「自分のやり方はこれかも?」と思い始めたことのすべてが記されていた。ただ、本書を先に読んでいたとしても、私が早々に改善できていたとは限らない。やっぱり「失敗」が自分のやり方を支えてくれているのだろうと思う。自分で思いついたことをやってみることと、さまざまな情報手段から学びつづけること、この両輪が「独学」にとって大切なのではないか。

【20】『女たちのニューヨーク』エリザベス・ギルバード

WASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)のヴィヴィアンがニューヨークの劇団「リリー座」の衣装係として飛び込み、その異世界の刺激の中で暮らしていく。挫折し、現実から逃亡し、そしてまた道を戻り……一人の女の子が紆余曲折を経て、自分の幸せを見つけていく生涯の物語。

ショーを観にやってくる人々は労働者階級。劇団を取り仕切るペグは、かつての第一次世界大戦中に負傷した兵士たちを相手に陽気な歌と踊りの寸劇を提供し、このやり方に辿り着いている。「ひとりの男が叫んだのを憶えているわ。“売春宿に行くよりいいぞ!”って」(p.138)。ヴィヴィアンの今までの暮らしとは何もかも違う場所だが、美しい女優・シーリア、さらには洗練された魅力を持つエドナに魅せられ、彼女はこの世界にのめり込んでいく。

シーリアがわたしを好きになったのは、わたしが彼女の小間使いになったから――というのは、ある程度は真実だ。最初から気づいていたけれど、それでよかった。(わかる人にはわかるはずだが、若い女どうしの友情は、どちらかが小間使いの役割をつとめることで成立する)(p.77)

ああ、こういう会話がどんなに好きだったことか。とにかくエドナと一緒にいたかった。正直に言うと、彼女にのぼせあがっていた。わたしの献身的な憧れの対象は、シーリアからエドナに代わりつつあった。シーリアはなおも刺激的だったし、いっしょに街に出かけてもいたけれど、わたしはもう彼女をそれほど必要としていなかった。エドナのもつ粋と洗練の深みは、シーリアから与えられたどんなものよりもわたしの胸を焦がした。(p.171)

また、「まさしく陥落だった」(p.234)と語るアントニーとの情熱的な恋。彼女のまわりはあまりに刺激に溢れていた。それゆえに浮かれ、現実を見失う様子もうかがえる。あることをきっかけに彼女の人生は転落し、挫折することとなる。不公平で理不尽な現実から逃亡するはめになったものの、それでも彼女の人生は続く。さまざまな経験を経て成長した彼女は、自身の経験を振り返る。

一九六〇年代はわたしを誇らしい気持ちにさせた。なぜなら、自分のいる小さな世界では、この時代のあらゆる変化と変革が先取りされていたからだ。
性革命? わたしがずっと実践してきたことだった。
ゲイのカップルが伴侶としていっしょに暮らす? ペグとオリーヴが先んじてやっていた。
フェミニズムとシングルマザー? マージョリーはずっと前からその道を歩いてきた。(p.543)

ヴィヴィアンを含む女たちが、自分たちの夢やアイデンティティ、愛するパートナーや友人たちのために、楽しみながら懸命に闘ってきた壮大なストーリーであった。

memo:感想を書きそびれた、印象に残った本リスト

【21】『共謀小説家』蛭田亜紗子

【22】『魯肉飯のさえずり』温又柔

【23】『すばらしい雲』サガン

【24】『書店主フィクリーのものがたり』ガブリエル・ゼヴィン

【25】『しみじみ読むイギリス・アイルランド文学』阿部公彦編

【26】『帝国ホテル厨房物語 私の履歴書』村上信夫

【27】『食の思想』小林カツ代

【28】『解像度を上げる』馬田隆明

【29】『クララとお日さま』カズオ・イシグロ

【30】『わたしの全てのわたしたち』サラ・クロッサン

【31】『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』斉藤倫

【32】『三つ編み』レティシア・コロンバニ

memo:再読リスト

【33】『マンスフィールド・パーク』ジェイン・オースティン

【34】『日の名残り』カズオ・イシグロ

【35】『スターガール』ジェリー・スピネッリ

【36】『ジェイン・エア』シャーロット・ブロンテ

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