恥を忍んで言います。私は今まで『ドン・キホーテ』を一度も読んだことがありませんでした。さらに言えば、三重県出身ゆえ、ドン・キホーテと言えば「志摩スペイン村(パルケエスパーニャ」のキャラクターのイメージ。
かっこよくて勇敢で優しくて、ちょっと思い込みは激しいけど、皆に愛されるヒーロー。読んでも、それはそうだった。そうだったのだが……
『ドン・キホーテ』の意外なあらすじと設定
読み進めてすぐ、「主人公となる紳士は、やがて五十歳になろうとしていた」(p.11)とあり、初めて彼の年齢を知る。
おまけに「どうやらケハーナと呼ばれていた」といい、ドン・キホーテは彼自身がつけた名前とのこと。彼は騎士ではなく、騎士道物語に憧れるあまり騎士になろうと決意した人だったのである!
読みおぼえた遍歴の騎士のあらゆる冒険を実際に行うことによって、世の中の不正を取りのぞき、いかなる危険にも身をさらしてそれを克服し、かくして、とこしえに語りつがれる手柄をたてることこそ、自分の名誉をいやすためにも、国につくすためにも、きわめて望ましいと同時に、必要なことであると考えたのである。
『ドン・キホーテ』 セルバンテス(岩波少年文庫)p.12
そこから、続く旅は思い込みの連続であった。大きな風車を「巨人」と勘違いし立ち向かって行ったり、羊の群れを「敵将」だと言って突進して行ったり……従者のサンチョ・パンサに止められても言うことを聞かず、己の騎士道を貫いていく。
えーーーーーーー!?
理解が全然追いつかない。どれもこれも、自称騎士であるドン・キホーテの思い込みの行動なのだ。
とにかく突拍子もない行動に出るドン・キホーテを、ハラハラしながら読み進める。こんな人がまわりにいたら大変だよ……
読むほどに染みる、ドン・キホーテという人物の魅力
しかし、読み進めていくうちに、「いや、ドン・キホーテは本当はスゴイ人なんじゃないか?」となぜか思わされてくる。旅で出会う人たちも、彼の本当の姿を判断しかねる様子が見受けられる。
この騎士が気のふれた正気の人物なのか、正気がかった狂人なのか、さっぱりわからなくなっていた。というのも、彼の話すことは筋がとおり、言葉も上品で、内容もしっかりしているのに、彼のすることは常軌をいっし、むこう見ずで、ひどくばかげていたからである。
『ドン・キホーテ』セルバンテス(岩波少年文庫) p.187
あるいは、彼はときに、本質を突くような格言を残す。それは決して騎士道物語のまねごとではなく、本来の彼自身から出てきた言葉である。
サンチョに「人の家柄を云々してはならぬ、少なくとも、人の家柄と家柄の優劣を論じてはならぬ」(p.256)と忠告したり、「自由というのは天が人間に与え給うた、もっとも貴重な贈り物のひとつ」とし、「自由のためなら、名誉のためと同様、生命をかけてもよいし、また、かけるべきなのじゃ」(p.302)と鼓舞する。
突拍子もない行動ばかりしている人物とは思えないほど、まっすくで優しく、芯のある言葉である。
そして何より、ラスト。どうなるかは本編を読んでもらいたいが、私は当初の「なんだこのヒーローは!?」と衝撃を受けたことも忘れ、静かに感動してしまった。ドン・キホーテよ、永遠なれ……
セルバンテスが描くキャラクターの特性
あとがきの解説にて、セルバンテスの作風の話があった。セルバンテスは人物を登場させる場合に「断定的に描いたり、善人、悪人ときめつけたりすることはない」という。
いったい、ドン・キホーテとサンチョはけなされているのか、称賛されているのか。狂気なのか正気なのか。利口なのか馬鹿なのか。こうした、どっちつかずのあいまい性、というよりはむしろ、両方の同時的認識にこそ、『ドン・キホーテ』の大きな特徴がある。
『ドン・キホーテ』セルバンテス(岩波少年文庫)あとがき p.370
まさに私が、魅力を感じた部分のことである。
昔から善悪がはっきりと決まっている作品が苦手だった。善悪は人によっても、環境によっても変わってしまうものだからである。
その一方で、多面的な性格を持つキャラクターや、善悪が入れ替わることもあるような作品に惹かれた。私にとってはそれがリアルだと感じるからかもしれない。さらに言えば、そういう作品はいつだって、思い込みを払拭してくれる。
ドン・キホーテは私が想像していた人物像とは、少々、いや大きく異なっていた。もっとへんてこで、狂気的で、でも優しくて、思慮深い。とても魅力的なヒーローだった。
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