朝井リョウさんのエッセイ『風と共にゆとりぬ』の中に、会社員という「枠」を手放した話があった。これまで作家と会社員の仕事を両立してきたが、ある仕事をきっかけに作家業のみに集中することにしたのだという。
退職して感じたことは、サラリーマンという肩書は、私に給料以外の様々なものを与えてくれていたということだ。具体的にそれが何かとは表現しづらいのだが、一言で言うと、「枠」のようなもの、だろうか。
『風と共にゆとりぬ』p.218
これまで会社員という枠に守られてきたと感じることもあったそうで、作家だけとなると「本を出さなければ、私はずっと、『毎日何してんの』状態になる」(p.219)と語っている。これは結構、芯を突いていると感じた。日本の世の中で生きていく上で、会社員などの「枠」に収まることは、かなり重要なことだからである。
枠がないことは不安だが、要は自分に必要かどうか
私はライターや編集者としてしばらく仕事をしてきた。ところがコロナ禍になり、インボイス制度や年金減額などのニュースがあり、将来をどうしていくか大変に迷うようになった。
このままではマズイ、という気持ちから、いっそ今の職業の枠を取っ払ってしまおう、と思った。何者になるといったことは決めず、とにかく自分が持続可能性のあるやり方で働いていけるようにしたい、と。
しかし、いざライターや編集者の仕事をストップしてみると、枠がないことがかなりの不安を呼んだ。自分のアイデンティティの一つを、失ってしまったような気持ちになったのである。
ただ、しばらくして、私が枠をなくして不安に感じているのは「誰かに対して自分を説明できなくなってしまうから」なのかもしれないなと感じた。まさに先述の、人から見れば「毎日何してんの」状態になることを恐れているのかもしれない。
そうだとすれば、それはさほど気にする必要はないはず。何せ、自分のための自分の改革。誰かに何かを思われても、その人が私の代わりに何かしてくれることはないのだから。
枠は社会で生きる上で、重要である。あった方がいいとも思う。ただし、なくなったとしても生きていける。枠のない時期があっても別にいいし、要は自分が納得しているかどうかが大事なのかもしれないな、と今は思っている。
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