もう何度目かの読了となるF・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』。大好きな作品である。
30代に突入した今、また読み直してみたところ、どんどんメインキャラクターの一人であるギャツビーが愛おしくなってきて、かっこよさも情けなさもさらに認識してきて、非常に魅力的に感じるようになってきたのだった。
華麗で人間味のあるギャツビーが魅力的
タイトルの『グレート・ギャツビー』は「偉大なるギャツビー」「華麗なるギャツビー」などとも訳されている。「ギャツビー」という男性を取り巻くひと夏の物語である。
語り手のニックが引っ越した先の隣に住むギャツビー。彼は、街中の噂の的として描かれている。大豪邸に住み、何やら毎週パーティを行っている男。その派手な生活ぶりに、人々は犯罪に手を染めているとか、密造酒の商売をしているとか、あることないこと噂している。誰もが話題にしたくなるような存在といえる。
ニックが初めてギャツビーを見た瞬間の描写は幻想的で美しく、ギャツビーの優雅な姿を想起させる。
五十フィートほど離れたあたりに、隣の屋敷の物陰から人影がひとつ音もなく現れたのだ。その人物は両手をポケットにつっこみ、そこに立って、空に細かく散った銀色の星をじっと見上げていた。落ちつきのある動作や、芝生に両脚で揺らぎなく立つ様子から、ギャツビーご本人であると推測できた。
『グレート・ギャツビー』p.46
実際にニックの前に現れたギャツビーもまた、優雅で華麗。水上ジェットを乗り回し、華やかなスーツを着て、紳士的に振る舞う。相手に対して「オールド・スポート」と独特の呼びかけを行うことでも有名で、私もこの話し方が大好き。
一見隙のない人物に思えるが、「とにかくじっとしていることができない」性分であることや、意外と話題を持っておらず、ニックが「正直なところがっかりしてしまった」と漏らすシーンもある。ギャツビーの身の上話はあまりに壮大で、ゆえに陳腐に聞こえてしまうほど。しかし、それでも話を聞いているうちに、やはりギャツビーに魅了されていく。
ギャツビーの魅力は、元恋人・デイジーへの行動にも表れる。彼女に見せるために豪勢な家を買い、親戚のニックには、「いつかの昼にデイジーを自宅に招待する際、自分も顔を出させてほしい」と慎ましい提案を持ちかける。遠回しの努力は、切なくてちょっぴり滑稽で、それゆえにギャツビーが愛おしく思える。
また、デイジーはすでに別の人生を歩んでいるにもかかわらず、ギャツビーは今の自分をわかってもらえば彼女が戻ってくると思い込んでいる。「すべて昔のままに戻してみせる」「彼女もわかってくれるはずだ」と繰り返すギャツビーは、純粋さと思い込みの激しさ、夢を追いかける美しさと冷静に考えられない浅はかさのようなものが入り混じり、私はそこに人間味を感じて、一層好きになってしまうのだった。
夢のように美しく、真理をつくデイジー
『グレート・ギャツビー』の中で、ギャツビーの次に好きなキャラクターがデイジー。初めて読んだ時はそこまで興味を惹かれなかったが、今はその魅力に取りつかれている。
もともとデイジーは、語り手のニックによって美しい存在として描かれている。特に喋り口調に対する「喉の奥でこっそりとつぶやくような例の素敵なしゃべり方」(p.192)という描写は個人的に印象深い。「なんて美しいのかしら」「なんて素敵」と優しく話すデイジーに、うっとりしてしまう。自由で天真爛漫な様子も可愛らしい。
水滴をしたたらせている裸のライラックの並木をくぐって、大きなオープンカーがうちの引き込み道を進んできた。車が止まった。ラヴェンダー色の帽子の、三角のひさしの下から、デイジーはかすかに首をかしげ、うっとりとするような輝かしい微笑みを浮かべて僕を見た。
『グレート・ギャツビー』p.158
しかし、一番好きなのは、デイジーが本当はすべてわかって、そのようなふるまいをしているのではないかと思わせるセリフだ。
自分の子どもが女の子だとわかったときに「女の子で嬉しいわ。馬鹿な女の子に育ってくれるといいんだけれど。それが何より。きれいで、頭の弱い娘になることが」(p.39)というシーンには、ぐっとくる。自分の人生や女性の生き方について思うところがあって、こういう発言をしているのだろうと察する。
信頼できない語り手が生み出す、不安定さと儚さ
語り手はニック。つまりギャツビーにせよ、デイジーにせよ、私たちはあくまでニックから見た印象でしか彼らを見ることができない。ニックがギャツビーを魅力的に感じるがゆえに読者である私もそう思ったのかもしれないし、デイジーも同様だ。
さらに言えば、語っている内容の節々にごまかしや嘘も感じられ、「信頼できない語り手」の一面もある。そうなると、私が感じている魅力も、もしかしたら本来のギャツビーやデイジーとは違うのかもしれない。ただ、そういう不安定なところに作品の儚さがあるようにも思うし、それもまた、彼らの魅力を引き出しているのではないかと、私は考える。
村上春樹氏は、『グレート・ギャツビー』を「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と言われたら考えるまでもなくあげると言っている。これを訳すことを最終目標にして、これまでの翻訳活動を行ってきたとも。初めて読んだときはそれほどの価値があるのか正直よくわからなかったが、回を追うごとに私はその魅力に取りつかれ、本作品の価値の高さを、しみじみと感じているのだった。
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