日記は誰かに見られることを想定している?「kotoba」2018年夏号「日記を読む、日記を書く」

日記文学は面白い。誰かの一人称で綴られるリアルな日常は、たとえトンデモ事件が起きなくても楽しいのである。朝起きてから夜眠るまでにしたことを淡々と書いているだけであったとしても、なぜこんなにも、私の心を躍らせてくれるのだろうか。人の生活を覗き見ているような気持ちになるからであろうか?

「kotoba」2018年夏号「日記を読む、日記を書く」は、過去の偉人から現代の著名人まで、実にさまざまな日記を取り上げ、日記について語りつくしている。ただ生活を覗くだけではない、意外な発見がたくさんあった。

日記は誰のためのもの?

日記は極めて個人的なものだと思っていたが、本書のさまざまな日記を見ている限り、どうもそうとは言いがたい。だって、夏目漱石が明確な読者を想定して書いていたようであるし、アナイス・ニンは自分の日記を編集して嘘を書いたらしいし、サバイバル登山家の服部文祥さんは日記を遺書の代わりにもしている。つまり、誰かに見られることを前提としている場合もあるのである。

学生時代に母親に日記を盗み見されていることに気付き、他人に見せることを前提に日記をつけ始めたという、みうらじゅんさんの話も面白かった。自分のために書いていても、いつのまにか読者が発生して、人のための日記になることもあるのか……

私も日記を書くのは好きだ。昔から思い立って書いては辞めて、を繰り返している。それで、なぜ自分が日記を書くのか考えてみたが、私は未来の自分を読者に想定しているなと感じた。将来の自分が、忘れていた出来事を思い出して、こうして何かのネタや企画として昇華できるといいなあと考えていたのである……よくよく考えてみれば、なかなかの文章オタクでビビる。

つまり日記は私のためのようで、私のためではないというところがある。今の自分のためでなく、未来の自分のため。ちなみに、人に見せるのは大の苦手だ。その昔、日記をWeb上に投稿することを試みたが、後日読んで恥ずかしさのあまりに「うわあ~!!」と叫んでしまった。何気ない日記を人に見せるのは恥ずかしくて怖い。私は未来の自分のためだけで、十分である。

真実を書くのは難しい

その一方で、奥本大三郎さんによる「真実を書きすぎた男――『ルナール日記』再訪」では、『にんじん』の作者、ジュール・ルナールが真実を書きすぎた余り、没後にルナール夫人によって一部を破かれたというエピソードが綴られていた。どうやら複数の女性と関係を持っていたようで、日記にはルナール夫人も知らなかったであろう女性関係を匂わせる記述があったらしい。

タイトルを見たときは「真実を書くのが日記ではないか」と一瞬思ったが、いやいやそんなことはない。人は自分しか見ないとしても、かっこつけたり、取り繕ったりすることも多いと思う。少なくとも私はそうである。真実を書くのは、意外と難しい。以下の文章は特に心に刺さった。

日記に本当のことを書くというのは、自分に対して残酷な行為でもあって、なかなか勇気が要るし、その能力も要る。自分と言う人間をちゃんと分析するだけの観察眼と知性がひつようである。

『kotoba』2018年夏号 p.68「真実を書きすぎた男」

日記は極めて自由な存在である。何を書いても、書かなくてもいい。取り繕ったって、誰も気に留めたりなどしない。しかし本当に真実を書こうと思えば、勇気と能力と知性が必要になる。特に勇気……自分の恥ずかしい部分や欠点を正直に書ける人は本当に偉い。私は日記において全然、かっこつけてます。自分しか見ないとわかっていても……いや、自分しか見ないからかもしれない。

その一瞬、人生の「途中」を切り取る

本誌の中でもっとも興味を惹かれたのが、志良堂正史さんの「一二〇〇冊分の人生を覗いた男」であった。私的な日記の魅力に引き込まれて、一般人の日記を買い取り、収集してきたという。

SNSで「手帳を一冊一〇〇〇円で買い取ります」と呼びかけたところ、二~三週間ほどして「僕の日記でいいなら」と申し出てくれた人がいました。買い取った日記を読んでみると、やはり面白い。完成していない、芽が出たばかりの思考や感情がそこにあり、きっとこれは僕以外が読んでも面白いにちがいない、書いた本人ではなくても、他人が水や肥料をやることで育っていくはずだ、と感じました。

「kotoba」2018年夏号 p.77「一二〇〇冊分の人生を覗いた男」

私も日記を読むのは好きだが、リアルな人物から借りて読むというアイデアは思いつきもしなかった。一二〇〇冊……途方もない数である。特に印象的だったのは、日記は「途中の状態が書ける」という話。「書いたことがどういう意味をもつのかわからなくてもいいというか、わからない状態をわからないまま書ける」(p.77~78)とあり、納得する。

先に紹介してきたのは偉人のものが多かったので、過去の記録としての役割があったが、進行形で人生を生きている現代人にとっては、日記の出来事はあくまで「途中の状態」なのである。今後それがどういう意味を持つかはわからないし、過去の偉人たちのように「作品」になる可能性だって秘めている。書いた願望を達成する人もいれば、書いたことすら忘れる人もいるのだろう。意味づけは本人の自由である。私の日記もいずれ、なんらかの意味を持つのだろうか。今のところ、ブログや話のネタにはなっているけれど……

日記は文章だけに限らない。イラストを描いている場合もあるし、細かく感情を書いている人もいれば、淡々と出来事のみを記録している人もいる。自由で個人的で、でもどこか、いつか他人に見られることを想定するような、作品的な一面もある。日記、本当に不思議で魅力的な存在である……



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