私たちは故人と、「作品」を通じて親しくなれる。枡野浩一『石川くん』で知る、石川啄木の姿

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自分が生まれる以前の文学作品に、どうしようもなく惹かれる。私たちが生きているこの時代の何十年、何百年も前に生きた人たちが、どんなところで暮らし、どんなことを考えてきたのかを知ることができるからだ。

現代では考えられないような慣習に驚くこともあれば、今と変わらない感情の機微に共感することもあり、いつだって興味深い。

昔の作品と向き合うとき、その作品を読み込むほかにも、関連作品や同時代の作品に目を通す、論文を調べる、などさまざまな手段があると思う。しかし、「この発想はなかったな……」と思わず唸ってしまったのが、枡野浩一さんの『石川くん』だった。

石川くんとは石川啄木のこと。本書では、著者の枡野さんが会ったことのない石川啄木をまるで友人のように「石川くん」と呼び、友人に手紙を書くようにして、文章をしたためている。

手紙形式で作品と生き様を明らかにする

石川くん……、
なんていうと、まるで仲のいい友達みたいだけど、
会ったことは一度もありません。
石川くんは二十代で亡くなりました。
歌手の尾崎豊もたしか同じくらいの年で
亡くなったんじゃないかな。
私は現在三十二歳なので、石川くんよりも年上です。
だから一方的な親しみをこめて
「くん」付けで呼ばせてもらいますね。

『石川くん』枡野浩一 第1回 石川くんと妻

著者の枡野浩一さんは、石川啄木と同じ歌人だ。しかし、啄木は1886年に生まれ、1912年には亡くなった人物であり、どう考えても同時代の人ではない。こんなふうに呼びかけるのは一見おかしなことに思える。

しかし、枡野さんの“石川くん”に宛てた文章を読んでいくと、不思議なことに啄木本人、そして彼の作品が身近に感じられ、親しみを持ってしまう。啄木の歌がどんなつくりで、どんなところが評価されていたのか、“石川くん”に宛てた文章の中で少しずつ明らかになっていく。

現代語訳から見える、今に通ずる思い

本書では啄木に宛てた手紙と同時に、啄木の短歌を現代語に訳した作品も見ることができる。

正直に言えば、私は啄木について「歌人、あるいは詩人」「一握の砂の人」レベルにしか知らなかった。しかし、本書を通して、「啄木の短歌は現代にも通ずるものがたくさんある」と感じた。

例えば、仕事について「わかる!」と共感したのが以下の俳句。

がんばっているんだけどな
いつまでもこんな調子だ
じっと手を見る

はたらけど
はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)樂(らく)にならざり
ぢつと手を見る

『石川くん』枡野浩一 第3回 石川くんと仕事

一生懸命頑張っていても、うまくいかないこともある。何で自分ばっかりがこんな目に、なんて思う日もあるだろう。

うんうん、と頷きながら読んでいたのだが、後の解説では「君がほんとはあんまり働かなかったってこと、わりと最近じゃ有名だよ」「調子の良すぎるリズムが、じつは働いていない君の姿を的確に表現してると思う」などとコメントされていて、笑ってしまう。

教科書に載るような偉人ではあるが、サボったり、面倒くさがったりすることもあったのだろう。

枡野さんは啄木について、「まことにしっかりした、頭のよい、かわいい、神経のこまかい男だとともに、執念ぶかい、ずるい、大きなうぬぼれのある」人物だと評している。

確かに、そうかもしれない。なんだか他人事とは思えない人柄や言葉選びに、どんどん親しみを覚えていった。

“石川くん”への愛が詰まった一冊

本書ではすっかり石川啄木をいじりにいじっている。しかし、26回にわたって現代語訳と解説、手紙のような文章を書き続けていることに、まぎれもない「愛」を感じる。

そして「もしも石川くんの歌の悪口をだれかが言い出したら、枡野浩一が許さない」という。「石川くんの悪口を言っていいのは、石川くんのことをだれよりも理解し愛しているこの私だけだもの」と断言する潔さが、とても心地よいのである。

私たちは故人と話すことはできない。しかし、作品を通してその人が何を考えていたのか、断片を知ることはできる。枡野さんと石川くんのように親しくだってなれてしまうのだ。それってとても素敵で、希望のあることだと、私は思う。

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