「食べること」と「言葉」が好きだからか、食にまつわる小説やエッセイなどにも惹かれる。食べ物、飲み物は、言葉で読んでも味わい深いのである。
今回はそんな中でも、食べ物、飲み物にまつわる「詩」について考えてみたい。
高村光太郎の飲み物にまつわる詩
長田弘さんのエッセイ『すべてきみに宛てた手紙』では、高村光太郎の「飲み物にまつわる詩」について語られていた。『智恵子抄』のイメージが強いが、本書によるとどうやら飲み物のある光景も多く綴っているようだ。
いくつか詩の一節が紹介されていたが、「ウウロン茶」「コカコオラ」「モツカ」「酒(リキウル)」など、カタカナの表現に趣がある。オンビキ(長音符号)も促音もない世界は、ハイカラ、文明開化の香りがする。
また、これら詩をふまえて、「飲み物のある風景」が映し出す「人の心」についても語られていた。
高村光太郎の詩にさりげなくうたわれている、こういったむしろ平凡な飲み物のある光景から切々と伝わってくるのは、そうした飲み物をまえにしている、人の心の一瞬の風景です。その、人の心の一瞬の風景のうちにぴたりと描きとめられているのは、その、そこにある物によってしか伝えることのできない、その人らしさです。
長田弘『すべてきみに宛てた手紙』p.43
食(ここでは飲み物)というのは、本当にいろんなものを映し出すと、私も思う。その人の趣味趣向、生活、価値観……そんなつもりがなくてもにじみ出る。そしてそれは時に、自分で自分を語るよりも雄弁だ。だからこそ、食べ物や飲み物を扱う作品に惹かれるのかもしれない。
『食卓一期一会』に見る食の風景
長田弘さんは『食卓一期一会』という、食の風景を取り上げた詩集を出版されている。料理や食卓に絡めて、感情の移り変わりや人生で大切な考え方を綴っており、心が満たされる作品たちばかり。
例えば「言葉のダシのとりかた」では「かつおぶしじゃない。まず言葉をえらぶ。」として新鮮なかつお節を削るように、自分の言葉の「本当の味」の作り方を説いている。自分の言葉を磨くことは、きっと自分自身を磨くことにもつながる。言葉を大事にしたいと心を新たにできた作品だった。
また、「ユッケジャンの食べかた」では「悲しいときは、熱いスープをつくる。」から始まり、食べ物が生活や感情と密接につながっていることをありありと感じることができた。
そのほか、特に印象的であったのはレシピのような詩。「朝食にオムレツを」では、「ボウルに四コ、卵を割り入れた。」と作り方が順番に記載されていて、読んでいるだけでお腹が空いてくる。ジャムやキャラメルクリーム、アイスバインなど、さまざまな料理が取り上げられていた。
以前に細川亜衣さんの『野菜』を読んで、「レシピが物語のように綴られている」と感じたが、本書はレシピが詩になっている。「作る」と言う行為は生活に欠かせないものであると同時に、詩的で、創造的なものなのかもしれない。
ちなみに解説は江國香織さんで、本書のことを「ひっそりと静かな詩集であると同時ににぎやかな本だ」「いいレストランのメニューにも似て、いつまでも読んでいたくなる」と表現していた。言われてみればレストランのメニューも、どこか詩的で美しいものがあったりするなあ。
食べ物も言葉も、どちらも生活から切り離せないものだ。だからこそ人の性や暮らしがにじみ出て温かく(ときに悲しく)、私の心を打つのかもしれない。
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