本から紐解く「言語の違い」の話。言葉が性格や文化と関係している? 英語と日本語の差異

住んでいる場所によって、話す言葉が違う。そしてその言語の違いが、どうやら性格や文化と関係しているらしい。

ガイ・ドイッチャー『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』によると、多くの学者たちが「言語は話し手である国民の特質を反映する」といい、かの有名な哲学者・フランシス・ベーコンは「『ある特定集団や国民が持つ資質と重要な特徴を、彼らが話す言語から』推論できる」(p.20)と説いたという。

同書のプロローグでは、言語の差異による考え方の違いがいくつか紹介されていた。例えば、古代バビロニア人は「罪」と「罰」を同じ単語で表していたそうだ。そうなると、ドストエフスキーの『罪と罰』を理解するのが難しいのではないか、と書かれていた。

「罪」は犯した悪い行い、「罰」は罪などを犯した際の報いという別の意味がある。しかし“罪は必ず報い(=罰)を受けるべきもの”と考えていれば、おのずと同じ言葉になるのかもしれない。罪を犯しても罰を受けないなんてことは、古代バビロニア人にとってはあり得ないことなのだろう。

あるいは、「手」「指」「腕」は三つとも同じ名前で呼ぶ言語もあれば、「手」と「指」の二つを同じ名前で呼ぶ言語もあるという話もあった。もちろん、日本語や英語のように三つに分けて呼ぶ言語もある。これがどこまで話し手の価値観に影響を与えるかはわからないが、呼び分けるかどうかで、「手」に対する概念や考え方が変わることは推測できる。

その国の言語でしか表せない言葉がある

言葉は話し手である国民の特質を反映する。となると、その国にしかない概念は当然、その言語でしか表せないということになる。

あるとき、「木漏れ日」は外国語で通じないらしいと、誰かから聞いた。木から漏れ出る光ということは示せても、温かみ、穏やかな様子というニュアンスは伝わらない。同様に通じないのが「コストパフォーマンス」。コスパを気にする概念がそもそも海外にはなく、英語のように見えても実は日本ならではの言葉だという。これらの表現は明らかに、日本人の性格や感性を反映している。

そんな中、エラ・フランシス・サンダースの絵本『翻訳できない世界のことば』は、その国の言語でしか表せない言葉の数々を紹介している。

例えば、「COMMUOVERE(コンムオーベレ)」はイタリア語で、「涙ぐむような物語にふれたとき、感動して胸が熱くなる」ことを指すという。情熱の国、イタリアらしい言葉だ。日本人がたとえ同じ物語に感動したとしても、同じ反応や気持ちにはならないだろう。

ほかにも時間や距離をあらわす言葉は、その土地独自の感覚が出やすいようだ。「PORONKUSEMA(ポロンクセマ)」はフィンランド語で、「トナカイが休憩なしで、疲れず移動できる距離」、具体的には約7.5kmらしい。トナカイがいる地域ならではの言葉。動物で距離感を測るのは、日本にはない発想な気がする。

ちなみに、個人的に好きだったのは、ドイツ語の「KUMMERSPECK(クンマーシュペック)」。直訳すると「悲しいベーコン」で、食べすぎが続いて太ることを指すらしい。ストレス発散ややけ食いが想像できておもしろかわいいし、何より「ベーコン」というチョイスがドイツっぽい。日本なら何になるだろうと考えてみたが、思いつかない……和食はヘルシーで、食べすぎを示すには少々心許ない。「正月太り」とか?

通訳・翻訳が発達し、言語が違う人とも難なくやり取りができるようになった今でも、細かなニュアンスが伝わらなかったり、そもそも適切な言い換えがなかったりすることもある。しかしその言葉こそが、その国ならではの特質や、独自の魅力を表すものになっているのかもしれない。

英語と日本語の違い

日本で「言語の違い」を語る際、真っ先に比較対象に上がるのは「英語」ではないだろうか。世界的に話している人が多いうえに、日本の義務教育でも学習が必須となっている。

使っている文字が違う、文法が違うなどのわかりやすい差異以外にも、多様な点で各国の特徴が出ている。例えば翻訳家・金原瑞人さんの『翻訳エクササイズ』では、一人称にまつわる話があった。

日本語では「私」「俺」「僕」「うち」「あたし」「おいら」「わし」などなど、無限に一人称がある。独自の一人称を生み出す人すらいる。しかし、英語は何をどうしても「I」だ。「あちらでは、王様も貴族も騎士も商人も農夫もみんな自分のことをIと呼び、自分のことをIと考えているのです」という一文に改めて、英語との絶対的な違いを実感する。

あるいは、日本語の終助詞。「なあ」とか「ねえ」とか、言葉の終わりに付ける言葉であるが、これまた英語にはない。「かわいいねえ」も「かわいいな」も英語だとすべて「cute」などの同じ単語で終わる。日本語は終助詞でその人の性格や場合によっては性別、年齢等も示す可能性があるが、英語は実にフラットである。

こういった英語の特徴があるゆえに、私は勝手に「英語は日本語に比べてシンプルで洗練されているな」と思っていた。ところがメアリー・ノリス氏の『カンマの女王』では、英語特有の複雑さが語られていた。

ここで挙げられていた一つに、主格や目的格の「屈折形」の話がある。日本語は一人称は無限にあれど、主格と目的格で変わることはない。ゆえに「You and I」か「You and me」でどちらが正しいか迷うことはない。だって、どちらも「あなたと私」だ。ただし、「お前と俺」とか「君とあたし」とかは、ありえるけど……

ほかにも、英語には発音しない「黙字(もくじ)」が多いという話もあった。日本は発音しない言葉がおそらくない。しいて言うなら促音をそう感じる人もいるかもしれないが、これだって立派に発音している。

英語という言語の複雑さを学んだわけであるが、改めて考えてみれば、ここで言う英語、つまりアメリカ英語は、移民たちによって作られてきた言語である。さらに本書によればもともとの英語自体も起源がごちゃまぜらしく、多様な言語ルールが取り入れられているらしい。複雑になるのも当然である……日本語には日本語の、英語には英語の難しさ、そして魅力があるということだろう。

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