森まゆみ『本とあるく旅』。読書で出会った土地に赴き、作家の生涯や作品に浸る

本を読むという行為は、場所を動かずできるものではある。しかし、本はさまざまな世界へ連れて行ってくれる。精神的にも、物理的にも。

森まゆみさんのエッセイ『本とあるく旅』は、作品の舞台や作家の故郷など、読書で出会った土地を巡り、作品や作家への想いを綴った一冊。本を読んで思いを馳せていた場所へ実際に訪れ、作品と風景に浸る。それは、本が連れ出してくれた旅だと、私は思う。

作家の故郷や作品の舞台を歩く旅

エッセイには、夏目漱石や森鴎外、正岡子規、石川啄木など、著名な日本作家たちが多数登場する。彼らの故郷や作品の舞台を巡りながら、そういえば作家や作品にはこんな話がある、といった具合にちょっとしたエピソードを教えてくれる。

この作家・作品のこんなところが好き、こんなところが嫌いとはっきり言葉にしているのも面白く、つい笑ってしまったり感心したりしながら楽しませてもらっている。中でも興味深かったのは、松江にあるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の旧居を訪れたときの話

ラフカディオ・ハーンは、小泉八雲という名で『怪談』や『骨董』などの作品を生み出してきた作家。父はアイルランド人、母はギリシア人で、日本にやってきたのは1890年、39歳の頃。出版社の特派員として松江で暮らし始め、その際に女中として働き始めた節子と結婚した。

本書に綴られたハーンと節子のやりとりはとても微笑ましい。例えば、ハーンは日本語がなかなか上達しなかった。かといって節子も英語を話すことはできず、二人は「ヘルンさん言葉」という不思議な片言の日本語で話したという。

あるいは、ハーンは日本文化や習俗、神秘にかなり関心を持っている人だった。そこで節子は日本の民話や伝説をたくさん集め、ハーンに話して聞かせていたそうだ。

「耳なし芳一の話」はたいそう気に入って、「あら、血が」というところを何度でも妻に繰り返させた。日が暮れてもランプをつけない夫に節子が「芳一さん芳一さん」と次の間から声をかけると「はい、私は盲目です。あなたはどなたでございますか」と答えたという。夫婦で「怪談ごっこ」に興じていたようである。

『本とあるく旅』p.28 森まゆみ

これがのちに『怪談』となるのだから、文学好きにはたまらないエピソードである。

二人の楽しい家庭生活は妻・節子が執筆した『思い出の記』にも描かれているそうで、こちらもぜひ読んでみたい。そして松江に出かけ、彼らの暮らしに想いを馳せてみたい。

本がもたらした、意外な旅のこと

旅にまつわる本もいくつか紹介されていて、そちらも興味深い。一番気になったのは、網野善彦さんの『古文書返却の旅』だった。仕事で漁村の古文書を蒐集していた網野さんが、借りた大量の資料を返却する旅を綴った一冊なのだという。

とにかく網野氏は四十年かけて、資料を返し続けた。その中からすばらしい論文も生まれた。誠実な資料返却を通じて、新たな交流と知見が生まれることもある、ということもこの本は教えてくれる。

『本とあるく旅』p.137

先述の作品や作家の縁の地を訪ねる旅とはまた違う意味の、本が連れ出してくれた旅だなあと感じる。資料を返しながらどんなコミュニケーションやエピソードが生まれたのか、ぜひ読んでみたい。

本を読むために旅をしてみる

最後に、とてもいいな、と感じた部分の引用を。

だから本を読みたくなったら旅に出る。今度は何の本を持って行こう、と考えるところからワクワクする。いつか読みたい、と買って積ん読になっている本、できるだけ軽いものを、リュックの外ポケットに二、三冊入れる。

『本とあるく旅』p.127

著者の森さんは仕事柄本を読むことが多いため、家にいると仕事関係の作品ばかりを読んでしまうそうだ。そのため、好きな本を読む際には、旅に出ることにしているという話だった。

実際私もライターや編集の仕事をする中で、家にいるとついつい仕事関係の本ばかり目についてしまう。その一方で大好きな古典文学は、一定の読む時間と集中力が必要であるために、なかなか家で読むタイミングがなくて困っている。

だからこそ、「本を読むための旅」をするというのは、ぜひ取り入れたいアイデアで。「本」と「旅」の組み合わせは、実に多様な楽しみ方があるのだなと感心したのであった。

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