エッセイを読んでいるとき、その著者がまるで長年付き合っている友人のように、近しく感じられることがある。杏さんの『杏のふむふむ』は、まさにそんな作品だ。まっすぐで丁寧な言葉を拾っていくたびに、会ったこともないテレビの向こうの彼女に、親しみがわいてくる。
記録することで、記憶を残す
同書には、杏さんの思い出のかけらが書き記されている。小学校のときのこと、駆け出しモデルの頃のこと、現在の女優の仕事のこと……読んでいると、彼女の記憶を辿っているような気持ちになってくる。
それほどに鮮明に思い出が描かれているのは、彼女の記録グセが関係しているのだろう。彼女は記録を残すことについて、次のように語っている。
自分の身にあったことを忘れちゃいけない! 残さなきゃ、と思う癖は小学校の頃毎日書かされた日記から来るのかも……あるいは、歴史が好きになったから、自分も何か残しておきたい、忘れたくないという思いからかもしれない。
『杏のふむふむ』p.49
また、彼女が身を置いてきた業界にも、そのヒントがあるように感じた。例えば、モデルの仕事では世界中を飛び回っており、本書にはその多忙ながら充実した日々や、各地に暮らす知人とのやり取りについても綴られている。
彼女は「ファッション業界は一期一会という言葉がぴったりと似合う」という。「留まっているところが一つも無いのだ」と。
一瞬で状況が変わり、次から次へと新しい人やモノに出会う仕事は、気が付けば多くのことが過ぎ去っていくだろう。忘れないようにするにはやっぱり、自分の言葉で記録をしておくことが、大切になるのかもしれない。
実際にエッセイを読んだ私は、その状況をありありと思い浮かべることができた。私も、いつのまにか過ぎていく日々を、こんなふうに記録していきたい。
ユニークな視点と発想に心を掴まれる
杏さんの記録は、ただのメモではない。その日々の節々には、ユニークな発想や視点がたくさん詰まっている。思わず感心したのは、歯医者さんと信長友達、「ノブトモ」になった話。
「最近、“ノブトモ”ができたんです。信長友達で、ノブトモなんです」ラジオで一緒に話している大倉さんは、意外な造語に「えぇーっ!?」と驚くとともに、語尾に疑問符を付けて笑っていた。
『杏のふむふむ』p.192
共通の趣味で友達になることもあるし、○○友達、というネーミングもあるといえばあるが、「ノブトモ」はキャッチ―ながら独特。歯医者さんと気軽に友人関係を築ける、彼女のコミュニケーション能力にも圧倒された。
ちなみに、大倉さんとのラジオのエピソードでは、同書のタイトル『ふむふむ』の由来についても触れられている。目上の方とのラジオをする中で、相槌の打ち方に迷い、模索する中で生まれたそうだ。
日常と同じように無言でうなずいていては、音で伝えるラジオでは意味が無い。かといって、いちいち「はい、はい」なんていうのもちょっとうるさい。「ウン、ウン」では目上の方に失礼である。悩んだ結果、私がとった方法は「ふむふむ」と言うことだった。
『杏のふむふむ』p.99
不思議な相槌には、「いったいあれは何なのか」という投書も少なくなかったという。ふむふむ、という字面は見たことがあっても、確かに、声に出して言っている人はほとんど見たことがない。
ラジオで聞くと一層「珍妙」に聞こえたのだろう。耳に残るワードがポンポン出てくるのも、このエッセイの魅力の一つかもしれない。
役柄とともに生きる女優業のこと
人生で誰かになりきる、ということをしたことがない。なので、女優業は未知の世界だ。しかし、同書を読む中で、彼女の役柄との向き合い方を知り、なるほど、そういうふうに考えているのかと腑に落ちた。
印象的だったのは、『妖怪人間ベム』で演じた「ベラ」のこと。彼女はまるで親しい友人のように、ベラへの思いを認めている。
拝啓、ベラ様。お元気ですか? 先のドラマ「妖怪人間ベム」では、大変お世話になりました。あなたが私の中に居た四か月間は、自分でも、今まで見たことのない自分を見ているようで、本当に不思議な気分だったんですよ。
『杏のふむふむ』p.152
誰かを演じるということはつまり、演じたい人物を自分の中に生み出すということ。懸命に作りあげたその存在に、親しみを持つ場合もあるだろう。杏さんとベラの距離感が、新鮮で面白い。
ところが、作品が続かない限りは、演じ続けることができない。生み出した役はいつのまにか、消えていってしまうのだ。
消えゆくベラの存在について、杏さんは「今でもあなたの居た跡が、胸のなかにぽっかりとあいたままで、そこが埋めてはいけない穴のようでそのままにしてあるのですが、また、あなたは私のところにやってきてくれるのでしょうか」(p.158)と語る。
女優という職業の、魅力と切なさがぐっと詰まったエピソードであった。
彼女自身はもちろん、女優業やモデル業に関しても、私からすれば遠い存在のトピックばかりであったはずなのに、読み終えるとなんだか近い距離にいる気がして不思議な気持ちになった。きっと温かくてまっすぐな彼女の文章が、そうさせたのだろう。
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