ヘレン・ケラーの自伝『わたしの生涯』。思い込み、想像のその先へ

人生で初めて読んだ伝記は『ヘレン・ケラー』だった。目も見えない、耳も聞こえない、話せない状況が信じられず、読み終わった後は自分で目をつぶったり耳を塞いだりして、ヘレン・ケラーの様子を想像してみた。すぐに恐ろしくなってやめてしまったけれど……

伝記は第三者による記述であったが、『わたしの生涯』はヘレン・ケラー本人による自伝だ。まず、彼女の境遇で自伝が書けることも驚きであったし、内容を読んでみると、私の想像とは違った部分もたくさんあって、考えを覆された。

もっと言えば、自分のあまりの無知ぶりに恥ずかしくなった。私は彼女の境遇に、ずいぶんな思い込みをしていたように思う。

自伝でわかる、彼女の人生の豊かさのこと

ケラー氏の幼少期の頃の話はあまりに有名。サリバン先生という素晴らしい教師に出合い、幾多の困難を乗り越えて、学び、訓練していく姿は伝記でも拝見した。

しかし私が最も驚いたのは、この「自伝」という形式で、彼女がしっかりと自分の言葉で記録を残していることだった。勉強の苦労はもちろん、大学へ行くまでの過程やその後どのようにして生活を送っていたかが綴られている。

伝記で知ることができたのは、彼女の幼少期から少し成長するあたりまでの話だったので、その後一般大学へ行ったことや各地を講演してまわっていたことは初めて知った。

また、彼女の交友関係の話も興味深い。例えば、作家のマーク・トウェインやカーネギー、発明家のグラハム・ベルやエジソンなど、現代では偉人と敬われている方々と多く交流し、言葉を交わしている。

特にベル氏とは親交が深く、「私が今もなつかしく博士を思い出すのは、偉大なる発明家または偉大なる恩人としてよりも、情愛に満ちた、同情心の厚い友人としてであります」(p.264)と語るほど。

確かに彼女は不自由な身体の特徴を持っているが、だからといって、決して見える世界が狭いわけではない。たくさんのことを学び、多様な人々と交友している彼女の人生は、実に豊かだと私は感じた。

もちろん、苦労を伴っているし、私には到底想像できないな辛さもあるはず。しかし、彼女を「かわいそう」と決めつけるのは失礼で、お門違いも甚だしい。

世間の人が私に向かって「あなたは人生に触れることが少なくてお気の毒ですね」というのを聞くと、ひとりでに笑いたくなります。それは友人、書物、雑誌、旅行、手紙などを通してどれほど私が人生と豊富に接触してきたかを知っておられないからであります。

『わたしの生涯』p.417

心の在り方に身体は関係ない

本書によれば、ケラー氏は実にたくさんの偏見や差別にあってきたようであった。当時は今よりもっと理解が少ないだろうし、私も含め、人はどうしても、想像できない立場に対して偏見を持ってしまう。

先述のように「かわいそう」と勝手に決めつける人もいれば、彼女の不自由さは生まれつきであったために「大人になってから視力を失うということがどんなことであるか、彼女にわかるはずはない」などと言われることもあったという。

しかし、彼女は言う。

あなたはその盲人を見てかわいそうだと思い、いったい盲人の思想や感情はどんなに違っているものかしらんなどと考えながら素通りして行かれたことでありましょう。だが、こんな間違った、残酷な考えだけはやめてほんとうのことを学んでください。心はどこまでも心で、苦痛はどこまでも苦痛であるのです。あなたのうちにあると同じように、盲人のうちにも、歓喜も、恋も、野心もあるのです。

『わたしの生涯』p.381

実際、本書を読んでみれば、もちろん苦労する部分に違いはあれど、私たちと何ら変わらないことに笑ったり、楽しんだり、腹を立てたり、悔しがったりしている。

心の在り方は、身体的不自由とは別のところにあるはずなのに、そんな当たり前のことにも気付けていなかったのだなあと反省するばかり。勝手に「大変な状況に立ち向かって生き抜いたスゴイ人」(もちろんそういう一面もあるが)とレッテルを貼っていたように思う。

私たちは目に見えるもので判断しようとするし、それ自体が悪いことではない。しかし、その判断が必ずしも合っているとは限らない。大切なのは事実に目を向けること、そしてその人の言葉を聞くことなのではないか。

伝記だけではわからなかったことをたくさん知ることができて、本当に良かった。

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