私たちは本当に「読めて」いるのか? 外山滋比古『読みの整理学』で見つめ直す、読む力

文章は読めるのに、内容がまったく頭に入ってこないときがときどきある。単語の意味がわからないということではない。言葉それぞれの意味はわかっているのに全体の内容を理解できず、うまく消化できないということだ。

ただ、『読みの整理学』によれば、この読んでもわからない文章を読むことが、非常に重要なのだという。なぜなら、通常「読んだ・わかった、といっているときの読み方は、低次元の読み方」であり、これだけでは「せいぜいありふれた身近な知識を得ることができるだけ」だから。真の意味で知識を得ようと思うならば、わからない文章に挑む必要がある。

本当に「読む」とはどういうことかを知る

わからない文章に出会ったとき、正直に言うと「この人の日本語が変だからでは……」と思ってしまうこともある。ところが本書では「自分の教養、知識をハナにかけて、読んでわからないと、文章が悪いからだと言うのは、思い上りである」(p.22)とぴしゃり。

うう……そう言えば昔、大学院の先生にも言われた。「作品が面白くないのはつまらないからじゃなくて、自分の理解が及んでいないことをまずは疑うべき」と。確かに最近、以前まで微塵も面白いと感じなかった作品にドハマりするということがあった。自分の中にあった前提知識が、大きく変わったからである。

学校などが教える読む技術は、ほとんど前者で知っていることをあらわす文章を読むことに終始していて、未知を読むことにはほとんどふみ込んでいない。われわれは、既知を読んで、ものが読めると思っているけれども、それは未知を読むための準備段階であって本当に読んでいるとは言えない。

『読みの整理学』p.17

私たちが何かを読んだとき、「頭に入ってきたものは、かならず、受け手の先行経験や知識によって『加工』される」(p.52)という。となると、前提知識や経験がなければ加工すらできず、その文章はわからない・つまらないままに終わってしまう。だからこそ、わからない文章に挑み、新しい知識を身に付ける努力をすることが大切、ということなのだろう。

未知を読むにはどうすればいいのか?

では、読んでもわからない言葉を読み、理解していくにはどうしたらいいのだろうか。もっとも簡単で効果的であると考えられる方法は、「繰り返し読み続けること」であるようだ。

くりかえしくりかえし同じ状況に対して同じことばを使っていると、その状況がすこしずつ既知の性格を帯びるようになる。十分にしばしばくりかえされていると、ことばとそれがあらわすものごととの間に結びつきのあることがわかる。

『読みの整理学』p.114

これは『素読のすすめ』で言っていたこととかなり近いように思う。素読は、読んでもわけのわからないことを繰り返し読むことで体に染み込ませる方法。意味がわかるよりも先に身体がその言葉を覚え、後に理解が追い付いてくるようなイメージ。

『素読のすすめ』のお話はこちら

子どもの頃そこまでよくわかっていなかった『枕草子』や『徒然日記』が今になってじんわりと染みてくるのは、当時繰り返し読んで覚えたからなのだろうなと察する。

ちなみに本書において、「くりかえし読んだ本のない人は、たとえ、万巻の書を読破していても、真に本を読んだとは言われないのである」(p.158)と断言されていたが、これはショーペンハウアーの『読書について』や小泉信三の『読書論』に通ずるものがあるなと感じた。うーん、多くの賢人がこぞってやっているとなると、「やらなければ」という気持ちになる。

『読書論』のお話はこちら

また、繰り返し読むにあたって「文学作品」が良いのでは、という話も興味深かった。物語は一見、読めばわかるように思えるが、ちゃんと読んでいくと未知の、わからない文章に遭遇しやすい。わかる読み、わからない読みの「二重の読み」が可能になるからこそ、わからない読みへの入門としてふさわしいのだとか。

そう言われれば、私が「わからない」を楽しめるようになったのは、明らかに文学のおかげかもしれない。「わかるようでわからない」文章には魅力が詰まりに詰まっていて、ついつい齧りつくように読んでしまうのである。

もともと性格的に「わからない」を楽しめるタイプだったから、そこまで気にしたことがなかったけれど、今後は意識的に読んでいきたい。だって「わからない」は知識の宝庫なのだから。

本書はほかにも、幼少期における言語教育についてもかなり解説されていて面白かった。自分が学ぶのはもちろん、教育分野に関心のある人や、子育てされている方にも参考になりそうである。



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