村上春樹インタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』。アイデンティティや文体への回答

『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』には、作家の村上春樹さんが1997年~2009年(※単行本版。最新の文庫版は1997年~2011年)に受けたインタビューが収録されている。メディア露出がほとんどない中、こんなふうにたっぷりと回答しているのはかなり貴重ではないだろうか。読みごたえも抜群で、読者の私もたくさんの気づきがあった。

村上さんと日本人のアイデンティティ

村上作品は、欧米文学、特にアメリカの雰囲気が漂っているように思う。キャラクターは比較的欧米的な文化を好んでいるし、生活スタイルや言葉遣いも、どこか日本的でない雰囲気を感じる。『風の歌を聴け』は英語で書き始めたという話もあるし、村上さんご自身が『グレート・ギャツビー』や『カラマーゾフの兄弟』などの欧米文学を敬愛していることも、関係しているのかもしれない。

また、村上さんはほとんど日本で生活をしておらず、さまざまな国に滞在しながら小説を書かれている印象がある。それはつまり、「日本」にほとんど属することなく、「個人」として生きているということだろう。ゆえに自身のことを「アウトサイダーみたいに感じて」きたというのは、納得だ。

しかしその一方で、日本を出てはじめて「日本作家としてのアイデンティティ」についても考え始めた話が印象的だった。海外に出ることで、「自分は誰なのか?」という命題をつきつけられたからだという。

僕は日本語で小説を書いています。だから当然、日本の作家とカテゴライズされることになります。じゃあ、僕の日本の作家としてのアイデンティティーはどこにあるのか?僕はアメリカに四年半ほど住んでいる間、だいたいずっとそのことについて考えていました。

『夢を見るために僕は目覚めるのです』

この話を読んで、カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞したときのことを思い出す。イシグロファンの私としては、彼はやっぱりイギリス人だ。日本にまつわる小説もあるし、日本に少なからず繋がりを感じているだろうけれど、日本人ではない。だから、彼がノーベル賞を受賞した際に「日本人の星」のように扱うメディアにはかなり違和感があった。

では、日本人作家のアイデンティティとは何なのだろう? 日本語で小説を書いていること、日本で生まれ育っていること……要件はさまざまにあるだろうけれど、村上さんは私にとってもやはり日本人作家ではある。そして、下記のコメントを読んだ際、かなり納得した。

人々がいかに行動するか、人々がいかに語るか、人々がいかに考えるか、そのような点については、僕の書くものは多分に「日本的」であると自分では考えています。僕の中には、日本人というものについて物語を書きたいという強い想いがあります。

『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』p.229

日々の暮らしで作る小説家としてのパワー

「規則正しい生活」は、村上さんの創作のキーワードのように語られている印象がある。ジョギングや水泳をされていることや、早朝に起きて執筆をされていることをエッセイ等で公表しているほか、出てくる登場人物も、比較的きっちりとした生活を好んでいるように思う。

インタビューでもやはり取り上げられていて、「『規則正しい生活』は、村上さんの創作力、創造力のエネルギー源となっていますか」という質問に対して、「小説を書くのは、一般の人が考えるよりはずっと体力を必要とする仕事」であるとし、「二十年以上、水泳、ジョギング、サイクリングといった運動を毎日欠かさずに続けています」「身体を若くしておくのは精神にとって大事」(p.36)と回答されていた。

机の上でじっと書き続ける仕事ゆえに、体力を考えるなんて意外と思うかもしれないが、私もデスクワークの、しかもものを書く仕事をしているので(程度やジャンルは全く異なるものだけれど……)、身に沁みた。何するにしても体力、大事ですね本当に……

あるいは、別の回答にて「『僕』という小説の中の主人公は、僕の仮説」と話している部分があり、それは作品内の「僕」の生活の基盤が規則正しいことにも関係がありそうだなあと思った。朝起きて、顔を洗って髭を剃って、サンドウィッチを作って食べる。そのシンプルながら「日々きちんと生きている」という雰囲気が、私はいつも好きだ。

文体をつねに進化させていく

村上作品の最も好きなところは、とにかく読み心地が良いことである。これは例えば、多くの古典文学にも通ずることだと思う。何気ない出来事であるはずなのに、読み進めるのが楽しいのはやはり、文章が心地よく、面白いからではないだろうか。

本書ではあちこちで「文体」にまつわる回答があり、それは私が今まで何となく感じてきたことのはっきりとした答えで、とても腑に落ちた。

村上さんは、「あれこれ言う前に、やっぱり小説というのは文体」(p.133)だときっぱり言う。これは本当に読み心地重視の読者としては共感。いくら面白い展開が描かれていても、文体が練られていないと、軽く、ぞんざいなもの感じてしまう。そういう作品に出合うと私は結構、読み飛ばしたり、読むのをやめちゃったりしますね……ごめんなさい……

ちなみに「『読んでるときはすらすら読めたけど、読み終わってからなんだろうと思い始めました』という感想は正しい」(p.51)と書かれていたのは笑ってしまった。これ、村上作品あるあるですよね?

手前みそみたいになりますが、まず文章が読みやすくて話が面白くて、しかも理解しきれない何かが残る。そしてその何かは、簡単に見過ごすことのできない「何か」だと感じる。だから人は読み返すんだと僕は思う。また物語にある程度の深さというものが欠けてたら、もう「何なんだ、これ、わかんないや」って放り出しちゃうと思うんです。でも、何かがあるはずだというものが胸に残るから読み返すと思うんですよ。

『夢を見るたびに毎朝僕は目覚めるのです』p.102

図星です。文章が面白くてすらすら読んだ後、「いや、でもこの部分はよくわかんないな?」と思い、読み返してなおハマっていく。やはり私にとっても文体は大事だなあとひしひし感じた。

もう何十年も小説家として文体を練り上げてきたことになるわけだが、それでもまだ、新しい小説を書くたびに、「前の作品のストラクチャーを崩していきたい」といい、「ストラクチャーを変えたら、それにつれて僕は自分の文体を変えなくてはなりません」(p.218)と語るからスゴイ……私たちは毎回、新しい文体を見せてもらえることになると思うと、ワクワクが止まらない。今後の作品も楽しみです。

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襟田 あいま
食べること・読むことがとにかく好き。食と本にまつわる雑感を日々記録しています。