『檸檬』梶井基次郎。漠然とした薄暗い気持ちに寄り添ってくれる一冊

梶井基次郎の短編集『檸檬』は、その多くが漠然とした薄暗い気持ちと、それから逃れようともがく様子が描かれている。「なんとなくしんどいな」というふわっとした薄暗さは、日常の小さなストレスや気候や人間関係や、さまざまなものが積み重なってふいに現れる。何とはなしにそういう気持ちを抱えた際、本書を読むと心が少し、軽くなる。

表題作『檸檬』のあらすじ、感想

生きづらさをうっすらと感じて苦しくなるとき、日々に疲れてしまったとき、特に表題の「檸檬」を読みたくなる。同作のように突拍子もない行動に出たり、何気ない風景にふいに心を癒されたりしてみたいと思う。

「檸檬」は、「不吉な塊」に覆われた主人公の物語。日々お酒を飲み続けていたら、焦燥のような嫌悪のような、二日酔いのような感覚に襲われたという。

結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また脊を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な魂だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせて貰いにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。

『檸檬』p.8

お酒がなくても、こんな焦燥感に駆られてしまうことは割合あるのではないか。私はある。悪いことが積み重なったわけでもないのに、もやもやと霧がかかった気持ちになり、それまで癒してくれていた小説や音楽や美味しい食べ物が、急に何の意味もなさなくなる瞬間。

同書ではそんな折、檸檬を使ってある「奇妙なたくらみ」に挑むのだが、その突拍子のなさに毎度笑いつつも共感する。ああ、わかる、こういう気持ち、ある。私に実行する勇気はないかもしれないとは思うが、こういうときって多分、勇気も何もない。無意識に「やっちゃおう」と身体が動くのだろう。主人公の行動を読みながら、私も共犯のような気持ちになり、にんまりする。

喪失感、不安……誰しもが抱える心の暗闇に寄り添う

「城のある町にて」は、暮らしの変化から刻まれた「喪失感」が描かれる。喪失感を抱える中で主人公は海岸や入江、人家の屋根などの何気ない風景を眺め、「何処を取り立てて特別心を惹くようなところはなかった。それでいて変に心が惹かれた」(p.23)とし、心の整理をつけていく。何気ない風景に勇気づけられることは、意外と多い。私は最近、ふいに見かけた電話ボックスに、なぜか元気を貰えました……変だな……

あるいは「橡の花―或る私信―」では、手紙形式に主人公の想いが綴られている。「この頃の陰鬱な天候に弱らされていて手紙を書く気にもなれませんでした」「あなたは笑うかも知れませんが、学校へ行くのが実に億劫でした」(p.76)と吐露する主人公は、自分の気持ちをわかってもらえないと知りながらも書いているのかもしれない。憂鬱な気持ちは誰しもにありながら、わかり合えるものでもないような気がする。

また「のんきな患者」では、病気を抱える不安と同時に、誰かに迷惑をかけるかもしれない不安、一人取り残されるかもしれないという不安など、さまざまな不安が交じり合って描かれる。主人公は癇癪を起こしそうになったり、かと思いきやふいに不安から解放されたりして、波のある感情を抱えながら暮らしている。これもまた、この主人公だけの不安のように思えて、同じ気持ちにはなれないけれど、そのわかり合えなさに、「わかる」と思う。

日々降ってくる憂鬱は必ずしも明確な理由があるわけじゃない。にもかかわらず、気分を落ち込ませ、生活に支障をきたすこともあるから苦しい。

ただ、『檸檬』はそんな憂鬱が誰しもにあること、まわりの何気ない風景やモノがふいに寄り添い、力を分け与えてくれることを思い出させてくれる。だからどうしようもない気持ちを抱えたとき、私は同作を読むことにしている。

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食べること・読むことがとにかく好き。食と本にまつわる雑感を日々記録しています。