ヴォルテール『カンディード』。世の中のすべては最善となるようにできている?

尊敬する誰かの言葉を信じて生きていく、それ自体は素敵なことだと思う。私もいろんな人の言葉を胸に生きている。しかし、信じ切ってそれだけしか見えなくなっているとしたら、それはときに自分を苦しめるのかもしれない。

ヴォルテール『カンディード』は、カンディードという少年の物語だ。彼は哲学の師・パングロス先生に「ものごとの結果にはかならず原因がある」「この世界は存在しうる世界のうちで最善のものである」と教わり、それを信じ切って生きてきた。

しかし、理不尽な事件に巻き込まれ続けたことでその教えに疑問を持ち、自分なりの答えを見つけていく。

病気も災害も、最善であるための出来事か?

冒頭で述べたパングロス先生は、個人的にかなりインパクトのあるキャラクターだった。彼の思想が物語をかき乱すだけでなく、現実社会にも大きな影響を与えているのではないかと考えたからだ。

パングロス先生は先に述べたように、どんなものごとも「世の中が最善であるためにできている・起こっていること」という。たとえ誰かが病気になっても、「この世界が最善の世界であるために不可欠のもの、必須の要素だった」ときっぱり。

たしかに、この病気は生殖の源の器官を毒し、しばしば生殖の妨げ、明らかに自然の偉大な目的に反するものであるが、しかしだ。もしコロンブスがアメリカのある島でこの病気をもらわなかったなら、われわれはチョコレートも、鮮やかな赤色の染料になるエンジ虫も得られなかっただろう。

『カンディード』ヴォルテール p.26~27

どんなに悲しいことや辛いことがあっても、「すべて必然で、この世が最善であるために起こったこと」だと述べ、耐え忍ぶことを推進する。

パングロス先生の教えの一部は、確かに正しいのかもしれない。自分が何か失敗したとき、「いや、これがあったから成長できた」と思えることはある。しかし、理不尽なことや不幸に対しても同じことを言えるとは思わない。

一見正しいような口ぶりで言われている彼の思想は、大いに疑問をはらんでいる。ヴォルテールはきっと、皮肉たっぷりに彼を描くことで、世の中にまん延する彼のような思想を批判していたのではないかと感じる。

大切なのは、自分自身で考えること

本作ではパングロス先生以外にも、さまざまな思想の人物が登場する。例えば、片目の博士は「個々の不幸が全体の幸福をつくりだす。ゆえに、個々の不幸が多ければ多いほど、ますます全体が幸福なのです」(p.29)という考えを持っている。

これはどちらかというと、パングロス先生の思想に近いような気がする。不幸もあって仕方ない、それゆえに幸せが存在する、という考え方。うーん、私は正直なところ、賛成できない。

あるいはマルチンは「この世界はいったいどういう目的でつくられたのでしょう」と尋ねるカンディードに「何だこれは、と私たちを憤らせるためですよ」(p.139)と答える。これはまるで、パングロス先生の思想とは正反対である。これはこれで偏屈で、ちょっと笑ってしまった。そんな世界だったら、嫌だなあ……

カンディードは始め、無邪気で純粋で、パングロス先生のことを信じ切っており、理不尽や不幸にも耐え抜こうとする。ときにはあまりに愚かすぎる発言や行動もあり、見ていてハラハラするし、ちょっと腹も立ってしまう。

しかし、あまりにもひどい境遇に思想を疑い始め、まわりにたくさん意見を聞き、自分なりに考え、答えを導いていく姿には、読者の私たちにとって大切な気付きも多い。これは何もカンディードに限った話でなく、現実を生きる私たちにとっても、必要な過程なのではないかと思うからだ。

世の中には多様な考え方があるが、誰かの考えを鵜吞みにするのでなく、広く意見を聞き、自分にとって大切なことは何なのかを、自分で考えることが重要なのだ。

私もカンディード同様、私にとっての幸福や、最善の世界とはどういうものなのかをたくさん考えることとなった。最終的にカンディードが辿り着いた答えは(ここにはあえて掲載しないが)「本当にそうだな」と頷くものであったが、そこに留まることなく、私は私で考え続けていくべきなのだろうと思う。

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