「わからない作品」に夢中になってしまう。自分の理解が及ばないからロマンがある

本当に読むに価いするものは、多くの場合、一度読んだくらいではよくわからない。あるいはまったく、わからない。それでくりかえし百篇の読書をするのである。時間がかかる。いつになったら了解できるという保証はない。

『読みの整理学』p.187 外山滋比古

『素読のすすめ』『読みの整理学』を読んでいると、つくづく「わからないことにはロマンが詰まっているな」と思う。自分の理解が到底及ばないなあと実感させられるとき、読書が無性に楽しくなって、高揚感でいっぱいになってしまうのだ。私はつねに、「わからない作品」に夢中です。

十分にわかった気がしないヴァージニア・ウルフ

ヴァージニア・ウルフの作品が好きだ。意識の流れの手法に、細かい感情の機微や情景の描写にうっとりする。近年再注目を浴びている、フェミニズムの視点からしても興味深い。しかし、「わかっている」とは到底言えないように思う。私の知らないこの作品の魅力があるだろうなと、毎回思いながら読み終えるからだ。

そんな中、光文社古典新訳文庫の『ダロウェイ夫人』を読んだ際、松本朗さんの解説にて以下のように綴られており、非常に納得した。

ヴァージニア・ウルフという作家は、何度読んでも、どの作品を読んでも、十分にわかった気がしない、しかし読み返すたびに新しい発見がある

『ダロウェイ夫人』(光文社古典新訳文庫)p.346

私はウルフの作品をすべて読めているわけではないけれど、例えば先の『ダロウェイ夫人』などは、もう何度か読んでいる。1回目と2回目で面白かった箇所が微妙に異なったり、前に読んだときは気に留めていなかった何気ないセリフにハッとしたりして、何度読んでも確かに新鮮な発見がある。それゆえに、「まだまだわかりきれないなあ」と何度も実感し、また読もうと思うのである。

いつだってあらすじを説明できない村上春樹作品

村上春樹の『1Q84』を読んだとき、人生で初めて「読み終えたくないなあ」と思った。この面白い文章を読み続けたいから、読み終わりたくない。ページが少なくなっていくのを惜しんで惜しんで、ときどき読みたいのをぐっとこらえたりして、結局読み終えてしまった後の達成感と寂しさ……懐かしい思い出である。

ただ、そんなに惜しんで読むほど面白いはずの作品を、人にちゃんと説明できたためしはない。面白いと思った部分を、自分が感じたとおりに伝えることは非常に難しい。何回読んでも同じ気持ちにはなるけれど、それを言語化できない。

この説明のできないところに、真の魅力が隠されているとは思う。いつか説明できる日が来るのだろうか。できないまま、楽しんでいたい気もする。

いつかわかってみたい『若きウェルテルの悩み』

『若きウェルテルの悩み』は2回読んだ。1回目は大学生のとき、2回目はその数年後。ところが、2回ともあまりわからないまま読み終えてしまった。何がわからなかったかも、わからない。読めているようで、全然読めていない、というのを初めて実感した作品はおそらくこれだ。

悔しい。名作の、いいところを一切わからなかった自分が悔しくてたまらない。この面白さ、あるいはもし面白くないと感じた場合はその理由を、きちんと自分の中に落とし込みたい。3度目の再読をいつにすべきか……

わからないことは嬉しいし悔しい。まだ見ぬ知識へのわくわくと、自分の理解の及ばなさへの悔しさでぐちゃぐちゃになる。しかしそれこそが私にとっての、読書の醍醐味あるような気がする。

これからもわからない作品は増えるだろう。そしてまた私は、読書に夢中になっていくのだろうなあ……

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襟田 あいま
食べること・読むことがとにかく好き。食と本にまつわる雑感を日々記録しています。