料理をするのが好きである。それと同じくらい、料理エッセイを読むのが好きかもしれない。誰かが料理を作っている様子、食べている様子、作り方のこだわり、失敗談……料理にまつわるエピソードは、どんなものであっても愛おしい。いくつか、お気に入りのエッセイをまとめてみる。
『日々ごはん』高山なおみ
『日々ごはん』シリーズは料理家・高山なおみさんの日記。第一巻は、2002年の春先から同年の夏が終わるまでの日々が綴られている。たくさんの美味しそうな食事が登場するほか、言葉選びが丁寧でじんわりと沁みる。ときどき読み返すと、心が浄化されるような感覚がある。
各ページの右横には、「ほうれん草のお浸し」「鰹のたたき」「カレーライス」などと、そのページに登場した献立が書かれていて、それもまた食好きの人の日記らしくて楽しい。これらの一部はレシピも紹介されている。
料理家の日々と聞くと、家でもこだわりの料理を作って食べていると思う人も多いかもしれない。確かに日記に登場する食はどれも美味しそうだが、意外にも料理に失敗した話や手を抜いた話などもたくさん出てきて親しみがわく。
残りものの赤ワインでハンバーグのソースを作る話では、「赤ワインのせいで酸っぱ過ぎた。入れない方がよかったな」と反省していたり、「お腹がすいて目がまわってきたので、サッポロ一番のみそラーメンを作っています」とインスタントが出てきたり。作ったごはんを自身で「手抜き粗食」と呼んだり……ついつい微笑ましくなってしまうエピソードも多いのである。
『洋食小川』小川糸
作家・小川糸さんのエッセイ『洋食小川』は食の発見とひらめき、そして愛情に溢れている。やさしい文章で綴られる料理の数々は、どれも魅力的だ。
お気に入りは、お屠蘇のエピソード。小川さんの夫・ペンギンさんが好きで毎年作っているそうなのだが、あるときふと閃いて、日本酒の代わりに屠蘇散を白ワインに漬けてみたという。お屠蘇を白ワインに!? と驚きながら読んだが、なかなかに美味しそうであった。
よくフランスにある、ちょっとクセのある薬草酒みたいで、私としては、正式なお屠蘇より、カクテルお屠蘇のほうに一票を入れたい。来年から、私のは白ワインで作っておこう。
『洋食小川』p.11
あるいはカレーを作ろうとした際には冷凍していた鹿肉の存在を思い出し、鹿肉のカレーを作ってみたエピソードも好き。私は家で鹿肉を調理したことがないし、あったとしてももったいなくてカレーには入れられなさそうと思っていたが、「カレーにはもったいない」という考えがもったいないと思い直した。新しい挑戦は失敗することもあるかもしれないが、こうした新たな「美味しい」を見つけることにも繋がるはずだ。
『巴里の空の下 オムレツのにおいは流れる』石井好子
もう何の本だったか忘れてしまったが、オムレツにまつわる話を読んでいたら、石井好子さんのエッセイ『巴里の空の下 オムレツのにおいは流れる』が登場した。オムレツと言えばこの本、というような記載だった。読んでみれば、なるほど、これはオムレツの本。ひいては、料理の本であり、旅の本であり、外国と料理の匂いが香るエッセイであった。
石井好子さんはシャンソン歌手で、パリを含むヨーロッパやアメリカなどをよく訪れていたようである。そして、本書ではそれらの食にまつわる思い出が綴られている。どれも美味しそうな文章(言葉から食べ物の匂いや味わいがありありと想像できて、お腹が空く!)であったが、オムレツの話は群を抜いて好きだ。パリでロシア人のマダムが作ってくれたオムレツは、石井さんにとって特別だったという。
そとがわは、こげ目のつかない程度に焼けていて、中はやわらかくまだ湯気のたっているオムレツ。「おいしいな」、私はしみじみとオムレツが好きだとおもい、オムレツって何ておいしいものだろうとおもった。もっとも、私はこどものころから卵料理が好きだったが、そのときのマダムのオムレツが、特別おいしいとおもった。
『巴里の空の下 オムレツのにおいは流れる』p.9
どんなふうに作られるかが丁寧に説明されているほか、作るコツ、各国の作り方の違いなどにも触れていて、ありとあらゆる面からオムレツを語り尽くしている。平仮名多めの温かな文章からオムレツの湯気や匂いが漂ってくるような、不思議な感覚があった。
オムレツはさまざまな国で作られているゆえに、文化や暮らしが入り混じっていて面白い。会話の中で「スペインふうのオムレツって、パリの人は食べるのかしら、私アメリカでよく食べたけれど」とか「ロシアふうの卵っていうのあるでしょう。あの料理、ロシアじゃ、イタリアふう料理っていうのよ」といったセリフが登場し、もうどこの国由来の何の食事なのか、さっぱりわからなくなるほどである。調べてみればフランス発祥であるようだが、ヨーロッパで広がり、いろんな食べ方がされているのであろう。
あるいは、よく作られているものだからこそ、暮らしに溶け込んでいる料理でもある。先のマダムはオムレツにバターを使うが、「戦争中はバタに困った」と話しており、当時の生活の苦しさを説明するのにもオムレツが登場するのだなと、妙に感心した。
オムレツの話から世界の食文化の話になり、さらに日本の食に戻ってきて……と、一冊の中で自由に国を行き来しながら、さまざまな「美味しい」に触れることとなった。
今井夏美『いい日だった、と眠れるように 私のための私のごはん』
今井夏美さんの『いい日だった、と眠れるように 私のための私のごはん』。今井さんの日常生活で作っているお料理のレシピたちと、食卓まわりの話を綴ったエッセイがまとめられている。「『食いしん坊』と言われ続けた人生」(p.2)(愛おしい響き……)という今井さんの食への愛情が伝わってくる一冊で、実用性がありつつ、読み物としても素敵で、心が温まった。
私も食べるのは好きであるし、できるだけ美味しいものを食べたいという気持ちは強い。しかし、毎食こだわるのは性格上難しい。手を抜いたり、調理済みのものに頼ったりして、ほどよく食を楽しむことにしている。そんな中、本書はそれを肯定してくれて、なおかつ、よりゆる~く楽しめる食いしん坊ライフを提案してくれているところも好きだった。特に共感したのは、以下のコメントである。
「もっとおいしく」を限りなく追っかけていたいのはやまやまなのだけど、「これなら作れる」と思えるレシピの軽やかさを優先している。まずは毎日毎食、ほどほどにおいしくご飯を作り、健やかに気持ちよく食卓につきたいのだ。
『いい日だった、と眠れるように 私のための私のごはん』p.36
「軽やか」と「ほどほど」は、私にとってもかなり重要なキーワード。20代までは完ぺきにこなすことに躍起になっていたこともあったけれど、30代を過ぎてほどよく楽しむことが好きになってきた。そのほうが、こだわりたいときにこだわれる余裕を持てるからである。
特に、ほとんど料理をせずに過ごすキャンプの話が好きで、キャンプ好きであるのにかかわらず、「ダッチオーブンもメスティンも持っていません。ごめんなさい」(p.69)ときっぱり言う潔さに笑ってしまった。キャンプに行ったからといって、こだわりのキャンプ飯を作らなければならないということはない。作ってもいいし、作らなくてもいいのである。ただ、いつも手を掛けずに放置して作って(?)いるという炭火焼きはとっても美味しそうだった……
『作家の手料理』野村麻里編
野村麻里さん編『作家の手料理』はさまざまな作家の食にまつわるエッセイをまとめたアンソロジーである。思い出の料理、食材などをテーマに、作家たちが偏愛を語っている。
鴨井羊子さんの「加賀煮こと、ジブ煮こと、かくれ切支丹料理」では、ジブ煮の多様な由来と成り立ちに触れられていた。例えば、「金沢の酒のみの一人」は、ジブタというフランス人宣教師の名前から来ているという説を提唱していたらしい。ほかにもかくれ切支丹料理とする説、それから、『石川県百科大辞典』に記載されている「狩りに出かけた武士が、農家で採りたての野菜と、ありあわせの材料で作ったから」(p.29)とする説などが紹介されていた。いったいどれが本当なんだろう……謎多き料理である。
また、本書で一番驚いたのは、石井桃子さんの「しゃけの頭」の話。石井さんは三大好物の一つとしてしゃけの頭を挙げており、かなり慣れ親しんでいるようだ。正直に言って、私はしゃけの頭を食べたことがない。いつも切り身かフレークを買うし、私の脳内に頭の存在はほぼないと言っていい。ところが読んでいるうちに「そんなに美味しいのか」と、どんどん気になってくる。
切り身はたくさんできますが、しゃけの頭は一つしかありません。きょうだいたくさんの私たちが、しゃけの頭を珍重するようになったのは、そのためかどうかしりませんが、とにかく、私たちは「コリコリ」とよんで、みんなで頭がすきになってしまいました。
『作家の手料理』「しゃけの頭」p.175
食べてみたい。しかし、いったいどこで食べればいいのだろう。しゃけの頭……以来私は、しょっちゅうしゃけの頭について考えている。
料理の思い出は十人十色、千差万別である。だからこそ、誰かの料理にまつわる思い出や、その家系ならではのレシピ、偏愛などを読むと、心が躍る。自分の日常にあるゆえに共感もありつつ、知らない世界を教えてもらえるわくわくも感じられるから。
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