ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』。属性の分断、依存症との闘い、そして文学による救い

『掃除婦のための手引き書』を読み始めたとき、各々の物語が何を意味しているのかよく理解できなかった。各主人公の年齢や性別、属性はバラバラで、舞台もそれぞれ異なる。

しかし、読み進めていくうちにその文章の美しさに魅せられ、属性による分断、依存症との闘い、死生観などが見え隠れしていき、最後には一つの大枠が見えた。

絶対的な分断を、容赦なく淡々と描く

同書の短編の多くには、人種や属性による分断が描かれているように感じた。特に「いいと悪い」は心を抉られるような分断が淡々と綴られ、怒りも苦しみも自戒もごちゃごちゃになり、読んだ後しばらく放心した。

「いいと悪い」は、とある学校の教師・ドーソン先生と生徒・アデルの物語。先生は慈善活動に熱心で、エリート主義を批判し、自由時間は「革命家のグループとともに貧民街でボランティア活動をしている」という。

しかし、そんな先生の考えに、アデルはいらいらしてしまう。「じゃあなんでここにいるの? そんなに貧しい人たちが心配なら、その人たちに教えればいいじゃない、わたしたちみたいなブルジョワ人種にかまわずに」(p.99)

ドーソン先生の理想と実際に広がる現実は、大きく乖離しているように見える。

慈善活動にアデルを連れて行き、彼女のまわりにみんなが集まってくるのを見て、「みんなあなたが好きみたい」と喜ぶが、アデルは「たぶんみんなが好きなのはわたしの靴やストッキングや赤いシャネルのジャケット」(p.102)と気づいている。

彼女は自分が馬鹿にされていることにまるで気づいていなかった。民衆の苦境について彼女が語る陳腐な共産主義のお題目を、みんなはしんそこ軽蔑していた。

『掃除婦の手引き書」「いいと悪い」p.106

私は読みながら、ドーソン先生はなんて愚かな人なんだろうと思った。自分勝手な善意や考えを押し付け、自分が正しいと信じて疑わない。

ただそれと同時に、自分が同じことをやっていないとは限らないなとも感じ、恐ろしくなった。自分が正しいと思うことが、ほかの誰かにとって正しいとは限らないし、良かれと思ってやっていることが迷惑であることもある。

こうしたすれ違いの背景には、理解の欠如があるのではないだろうか。属性や環境だけで「かわいそう、これをやってあげるべき」と決めつけるのは傲慢だ。

しかし、こうした理解の欠如はそこかしこで起こっていて、私の心にもないとは言えない。最後の怒涛の展開にも心を痛めた。この分断をなくすことは果たして可能なのか。可能であって、ほしいけれど……

どうにもならない状況を抱えて

各物語に登場する人物たちの多くは、経済的、精神的にどうにもならない状況を抱えている。「頑張ればなんとかなる」と言うのは簡単で、彼らにとって意味をなさない言葉だろう。

例えば「エンジェル・コインランドリー店」では、コインランドリーに集まる客たちのやりとりが描かれる。彼らは気軽にコミュニケーションをとっているものの、言葉は時に重い。

もしもあたしが木曜に来なかったら、それはあたしが死んでるってことだから、わるいけどあんた死体の発見者になってちょうだい、そう彼女は言った。ずいぶんすごい頼みごとだと思った。それに、そうなると必ず木曜日に洗濯しなくちゃならなくなる。

『掃除婦の手引き書』「エンジェル・コインランドリー」p.10

「すごい頼みごと」ではあるが、自分のことで精一杯であるからこそ「木曜日に洗濯しなくちゃならなくなる」と生活の心配が先に来る。本人に自覚があるかどうかは別としても、日常が切羽詰まったものであるという息苦しさが、何気ない言葉や描写から伝わってくる。

あるいは「最初のデトックス」では、アルコール依存症が悪化した女性の話があった。

警察の世話になったのは――記憶はないものの――これがはじめてだった。飲んで運転したのもはじめて、一日以上仕事に穴をあけたのもはじめて、それに……。この先どうなってしまうのか、自分でもわからなかった。

『掃除婦の手引き書』「最初のデトックス」p.75

アルコール依存症の話は定期的に登場し、その切実さは依存症でない人間の身にも切実に迫ってくる。特に、自分やまわりは「普通に生活できている」と思っているのに、ふいに日常を壊されてしまうことがあるから恐ろしい。

文学は人の救いになるか?

分断や依存症、精神的・経済的な苦しみなど、あらゆる問題が描かれる中、印象的だったのは定期的に文学作品が登場することだった。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』や三島由紀夫、あるいはシェイクスピアなど、多様な作品に言及している。

「さあ土曜日だ」では、刑務所の中の文章教室でのやりとりが描かれている。

長年刑務所の中にいるせいで「最高(グルーヴィ)だな」「ゴキゲン(トリップ)だぜ」と若者言葉ばかり使ってしまう男性が、刑務所内の文章教室に通うことで文学作品を知り、文章の書き方を身につけていく。

おれたちは毎晩房(セル)で書き、書いたものを相手に読んで聞かせ、交代でいろんなものを朗読した。ボールドウィンの「ソニーのブルース」。チェーホフの「ねむい」。

『掃除婦の手引き書』「さあ土曜日だ」p.247

生活に苦しみや悩みがあるとき、生きていくだけで精一杯になるし、どうしても文学に触れることからは遠ざかる。

しかし読み終えてみて、この作品しかり、文学は心を揺さぶり、自分の中に新たな価値観を生みだし、ひいてはある種生きていく上での「救い」になるのではとも感じた。やはり私はこれからも、物語を読み続けていきたいと改めて思ったのだった。

内容について多く触れたが、ルシア・ベルリンの作品は(翻訳で読んでいるが)文章が美しくてうっとりした。慌ただしく過ぎる日常の中で「文章そのものを楽しむ」ということを少し忘れていたような気がする。そして本作はそれをしっかりと思い出させてくれたのである。

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