実家が飲食店で、おまけにフードライターをやっていると、「美食家」「グルメ」「舌が肥えている」などといったレッテルを貼られてしまう。
褒め言葉として言ってもらえることも多いので本当に申し訳ないのだが、私はこの手の言葉が苦手である。だって、ぜんぜん美食家でもグルメでもないし、舌は肥えていない。
ただ食べることが好きで、自分にとって美味しいものが美味しいだけなのです。すみません。
超個人的な「食」による幸福論
好きな「食」に優劣なし
ひとまず、自分が好きな食べ物について考えてみる。
お気に入りのイタリアンのブルスケッタ、もうなくなってしまった老舗のグリーンカレー(恋しい……)、父お手製のピザ、伊賀牛、卵かけご飯、UFOの焼きそば、無花果、トマト、お義母さんが作ってくれるパパイヤしりしり、某店の海鮮丼、かつおだし、ニラ玉、富山で食べた寿司、某オーベルジュのコース料理、鯛のカルパッチョ、家系ラーメン、生ハム、ごはん、沖縄そば、栗きんとん、チョコレート……
まったく、統一も何もない。ジャンルはもちろん、インスタントも飲食店での食事も、自分や家族が作る料理も同じ「美味しい、大好き」の引き出しに入っている。
好きな食べものはまだまだあるが、おそらく書けば書くほど、混沌としたリストになっていくだろう。そしてこれらに優劣はない。どれも大好き!!
何が言いたいかと言えば、それが高級であろうとなかろうと、誰が作ったものであろうと、関係なく好きなものは好き。強いて名乗るなら、雑食の食いしん坊、といったところかもしれない。
私は私の「美味しい」が好きなだけ
この雑食体質、おそらく両親の影響を大いに受けている。
食に優劣をつけない両親のスタンスが私は大好きで、「美食家」などと言われてしまうたびに「いや、『美』とかじゃないんです、自分が美味しいと思うものは美味しいっていうスタンスです」と言いたくなる。
だって、高級であってもなくても、どれも誰かが工夫して美味しくしてくれているのは間違いないじゃないですか。感謝……
それに、私の「美味しい」が正解とも思わない。私と正反対の味覚の人もいるだろうし、私が美味しくないと思ったものを美味しいと思う人がいても、おかしいなんて思うはずがない。
何なら、私の知らない「美味しい」をぜひ、教えてほしい。「美味しい」はいつだって自由で、皆違って皆いい、なのだと考えている。
これからも私は、ただの食いしん坊として生きていきたい。そして、好きな人たちと好きなように「美味しい」を共有したり、それぞれの考える「美味しい」について気軽に語り合ったりしたいのである。
著名人たちの「食」の美学
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